藤原兼子
日本の平安~鎌倉時代の公家女官、藤原範兼の娘、藤原頼実の妻、後鳥羽天皇乳母
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生涯
父・範兼は永万元年(1165年)に死去し、兼子ら子供たちは幼くして残されたため、叔父・範季に養育される。一門は後鳥羽天皇と関係が深く、兼子も乳母として仕えた。無名の女性であったが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、45歳で典侍となり、政治の表舞台に現れるようになる。独身であった兼子はこの頃に権中納言・藤原宗頼と結婚している。
姉・範子の夫である源通親は後鳥羽天皇の乳父として権勢を振るった。兄の藤原範光は低い官位ながら後鳥羽天皇の近習として重用され、その権勢は通親と並び称されるほどであった。通親が擁する土御門天皇より、守成親王(のちの順徳天皇)を後鳥羽上皇が寵愛したことから、守成を後見する範光・兼子兄妹と通親の間で対立も起こっている。
建仁2年(1202年)、通親が死去し、後鳥羽上皇の独裁が強まるにつれて兼子は範光とともに側近としていっそう重用され、権勢を誇った。建仁3年(1203年)正月の除目について、『明月記』によれば、前年までは通親が実権を握っていたが、その年はすべて上皇の意志で行われ、通親に代わって権門女房(兼子)が取り仕切っていたという。
夫・宗頼は結婚から3年後の建仁3年(1203年)正月に死去し、権勢を誇る兼子に通親の弟の源通資など複数の男が近づき、兼子は同年のうちに太政大臣大炊御門頼実と再婚した。
建保6年(1218年)正月、熊野詣のため上洛した北条政子と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は後鳥羽上皇の皇子で自身が養育していた頼仁親王(実朝の妻西八条禅尼の姉・坊門局(西御方)の子)を、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継将軍に推したとの噂が『愚管抄』に記されている。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。
承久元年(1219年)、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向に消極的な上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には慈円や西園寺公経の奔走により、公経の孫で九条家の三寅(藤原頼経)が次期将軍として鎌倉へ下向した。2年後の承久3年(1221年)、兵を挙げた後鳥羽上皇によって承久の乱が起こる。上皇は幕府軍に敗れ、中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となった。
老年の兼子は都に留まり、乱後8年を生きながらえた。その間、延暦寺の僧と所領のことで争い、延暦寺によって京追放、所領没収の訴えを受けたり、倉に強盗が入って権勢の間に蓄えた財物を奪われ、警護の兵が殺害されるなどしている。
寛喜元年(1229年)夏頃、頭部の腫瘍に苦しみ、それが元で8月16日に75歳で死去。残された財産は修明門院[注釈 1]に遺贈された。