厲王
From Wikipedia, the free encyclopedia
厲王(れいおう)は、西周時代の周の第10代王。周の夷王の子として生まれた。夷王が死去すると、厲王が周王として即位した。
『史記』によれば、厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる[1]。これにより、周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生し、厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れたとされる[1]。しかし、この経緯は、定型的な暴君説話であり、歴史的根拠があるわけではない[2]。
出土した金文資料には、厲王は南国の服子を討伐したり[3]、晋の献侯とともに夙夷を征伐したり[4]と、親征を繰り返したことなどが記録されている[5]。当時は、貴族層の権力が大きくなっており、厲王は、これらの政策で王権の求心力を強めようとしたが、それが逆に貴族層の反発や不安を生むなどし、前記の追放に至ったと推測されている[2][5]。
厲王の追放後、共伯和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされる(竹書紀年)。
紀元前828年(共和14年)に厲王は死去し、周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。なお、宣王の時代に厲王の末子である姫友が鄭に封じられ、鄭の桓公となった。