古市胤栄
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生涯
経覚との出会いと両親の死
大和国の興福寺大乗院の官符衆徒棟梁であった古市胤仙の子として生まれる。
1447年3月3日(文安4年2月17日)、父・胤仙の画策により古市迎福寺に到着した大乗院門跡経覚と出会う。
1448年8月14日(文安5年7月15日)、母逝去。10月26日に百ヶ日を執り行う。
1449年6月22日〜7月7日(宝徳元年6月2日〜17日)、腹の調子が悪く、重篤な状態となる。経覚は「春藤丸は心の持ちようが落ち着いており、長じれば人並み以上の人物になるに違いない。ここのところは一層私に懐き、尚更気の毒でならない。打つ策もなく、ただ困惑するばかりである」と綴り何度も祈願した[6]。思いが通じたのかその夜明けに春藤丸は回復の兆しを見せ、17日には完治した。
1450年5月25日〜31日(宝徳2年4月14日〜20日)、祖母・吉岡尼、妹と一緒に伊勢神宮へお参りに行く。出立前に経覚から織色の帷をもらう[6]。
官符衆徒棟梁就任
1455年10月26日(康正元年9月16日)、筒井氏の没落に伴い、官符衆徒棟梁に任命され代官に一族の山村胤慶が就いた[8][9]。春藤丸は元服するまでは寺務に専念し、それ以外を古市代官(山村胤慶や長田家則)が務めた。官符衆徒棟梁には豊田頼英・小泉今力丸・鷹山奥氏・秋篠尾崎氏も任命された。
1456年6月27日(康正2年5月25日)、古市領の荘園である古市・田村荘からの白米十三石と礼銭五貫文を初任給として寺務から通知される[10]。この頃より春藤丸が衆徒として実務に携わっていたことがわかる。翌月7月14日(6月12日)、大乗院の建物修繕のため、大和国の寺社に課した拠出金取立ての命が古市・越智・小泉に下る[11]。正暦寺、内山永久寺、長谷寺、長岳寺、信貴山寺、平等寺、橘寺などが含まれている。
1457年2月14日(康正3年1月20日)、禅定院の築地塀整備の現場監督を豊田頼英から任せられる[12]。下地づくり等を準備するため、寺領の七郷から人夫を毎日およそ30人ずつ召し出し、また横行法師2人も加わった。19日は経覚と今力丸と共に般若寺へ赴く。
同年7月20日、窪城氏の娘を娶る。
1459年(長禄3年)3月、祖母・吉岡尼、翌年8月には祖父・胤憲逝去。
1460年3月16日(長禄4年2月23日)、成身院光宣など敵方の筒井衆と会合する。11月22日(長禄4年10月10日)、大和龍田の合戦にて古市一族の古市彦三郎とその子・彦左衛門兄弟が討死した[13][14]。大和は畠山氏のお家騒動で二分され、国人は畠山義就と畠山政長それぞれを支持して争っており[15]、胤栄は越智家栄と共に義就を支持した。義就側の彦三郎親子は龍田(現在の生駒郡斑鳩町)に陣取っていた政長陣営に攻め寄せたが敗北した。政長軍の後攻を務める筒井順永が総勢500ほどで攻撃したためである、と経覚に伝えている[16]。
法名「胤栄」 斯波・朝倉との出会い
1465年9月18日(寛正6年8月28日)、出家し法名を「胤栄」とした[17][18]。出家は格式に則り、師僧は宗芸・英照の2人が法衣と衣一式の支給、指貢三百疋の寄進を行った。出家前には尊藤の部屋で一献を奉り、出家後には杉原紙一束と白布一反が下賜された。
10月21日、幕府直轄領河内十七箇所で畠山義就と畠山政長の代官争いが発生し、義就と申し合わせ、胤栄は兵を率いて河内国に出陣した[19][20]。同行したのは片岡・吐田・竜田・山田・萩・窪城・番条らで、甲冑の兵は合わせて2〜300人であった。その日のうちに河内国の仁和寺に入り、敵陣は約1kmの距離に陣を敷いた。26日、初合戦が行われ一帯を攻め立てて焼き払い、29日に帰陣した。
1466年5月13日(文正元年3月29日)、朝倉孝景の仲介で初めて斯波義廉と対面する[21]。5月29日には義廉から尾張と越前で所領を与えられ、主従関係を結んだとみられる[22]。斯波義廉と義敏の対立が激しくなり、諸国からも軍勢が結集し始めたため、8月8日、萩を大将に義廉方として甲冑の兵約10人と射手10人を上洛させた[23][24]。この功績で越前にて800貫文の所領を加増された[25]。
1467年2月14日(文正2年1月10日)、斯波義廉が管領に補任されたため、与三の子息と楠葉元次を上洛させ、管領就任を祝った[26]。このとき義廉から700貫文の所領を加増された[27]。
応仁の乱 開戦
1467年2月25日(文正2年1月21日)、胤栄は朝倉孝景より上洛の催促を受け、斯波義廉方の軍勢として早朝に出陣した[28][29][30]。一族・若党は呼び集め、出立の際には暇乞いの盃を交わした。胤栄は絹の小袴を着用し板輿に乗ったが、道が悪く難渋したため一度足を止めた。改めて出立した際には胤栄も馬に乗り、4〜5人を側においた。楠葉新右衛門も同じく騎馬し、一族・若党あわせて三十余騎が従った。古市勢は鷹山を越え山田を通って上洛の途に就く。前方には甲冑の兵約70人おり、一日で京都に到着する見込みであった。
しかし午後に京都から「上洛不要」との知らせが届いた。去る18日に御霊合戦があり畠山政長方の細川勝元・京極持清、さらに細川成之・赤松政則が反旗を翻して政長を見捨て、将軍方へ寝返ったためである。その間に畠山義就が自ら出陣して合戦となり、義就方では隅田・隅屋が討死、政長方では遊佐八郎左衛門・神保兄弟が討死した。さらに山名宗全と義就が手を組み、垣屋孫右衛門に備後衆を付け、朝倉孝景も義就に与して出陣。深夜に政長が敗走したためこれを追撃し、朝倉勢も首級を挙げた。上洛は敵勢がいなくなり不要となったため、相楽で引き返し帰還した。
3月2日(1月26日)、胤栄は上洛を果たし即夜管領の斯波義廉に謁見した[31]。翌日には会食が行われ、管領同席というこの上ない名誉を受けた[32]。列席者は、小笠原民部小輔、武田大輔入道、朝倉孫二郎、甲斐修理亮、甲斐八郎衛門などで、音曲や舞も行われた。3月8日(2月3日)に下向した[30]。
5月末の上京の戦いを以て、京都では応仁の乱が開戦する。このとき胤栄は斯波義廉及び朝倉孝景から上洛を促されていた[33][34]。既に越智家栄の軍は兵100人で上洛していたが、尋尊を始めとした興福寺内の僧侶は、朝敵となる恐れありとして古市の上洛に否定的で、胤栄に上洛を諌める働きかけを数日間かけて行った。胤栄は8日に上洛のため出陣していたが、一族を集め上洛の是非を協議した。12日には朝倉から至急上洛の通達もあったが、最終的に14日に僧侶の宗藝・慶英が胤栄に迫り、上洛を思い留まらせた。 [注釈 1]。翌15日夕方、楠葉元次の子息が経覚に、昨日京都二条で朝倉孝景と敵方の武田信賢が交戦し、武田勢に大きな損害を与えたと知らせた[36]。酒席にいた胤栄は勝報に大いに喜び、即刻古市城に伝えよと命じた。
9月12日、楠葉元次が京情勢を持ち帰り、胤栄の上洛を巡る圧力・指示が山名宗全と朝倉孝景から届いたことを報告した。胤栄は朝倉の要請を受ける形で上洛することを決定した[36]。25日、大将を萩左京亮とする甲冑15人他一族・若党、楠葉元次の子息が先発隊として上洛した。27日、朝倉勢が近辺に布陣している黒谷法然房寺(現在の京都市左京区黒谷町 金戒光明寺)に陣を構えた。一方で敵方の赤松勢は南禅寺付近に陣取っていたのでそれと向き合う形での布陣となった。
10月3日、相国寺の戦いが起こり、古市勢は西軍の畠山義就・朝倉孝景に加勢し勝利を収めた。武田信賢が陣取っていた相国寺は悉く焼け落ち、その跡地に朝倉勢と共に古市も陣を構えた[36]。
応仁の乱 大和での戦い
1468年6月10日(応仁2年5月20日)、朝倉孝景からの新恩地のため使いを越前に送ろうとするが、このとき越前では斯波義廉と対立していた義敏が復活を果たし、朝倉勢を国外追放しており情勢が不安定であった[37]。
1470年10月28日(文明2年10月5日)、胤栄は下狛(現在の京都府相楽郡精華町)の大内政弘率いる軍勢に加勢するべく大将を長田家則として兵を派遣した[38]。木津に拠点を構えている筒井順永らと戦った。
1471年2月12日(文明3年1月23日)、南都一帯の武力衝突の渦中で郡山衆に与する胤栄の同盟勢が薬師寺を攻めて新坊を焼き払った[39]。
1473年9月19日(文明5年8月27日)、経覚入滅する[40]。死因は数日前に発症した大中風(脳卒中)であったとされる。経覚が倒れた際に胤栄と尋尊は葬儀のことを相談している。胤栄は小衣を纏いて古市一族大勢で葬列に参加した。
1474年8月28日(文明6年7月16日)、小隊を京都へ向けて派遣したところ、翌日に大内政弘から京都で合戦がある見込みとの通達があった[41]。
1475年6月17日(文明7年5月14日)、初陣の弟・澄胤や越智家栄と新薬師寺に布陣し東軍の十市遠清、箸尾為国、成身院順盛らと春日大社の大鳥居で合戦となった[42]。古市方は一族4人・若党13人が討死、胤栄と澄胤は辛うじて「継命」した。大乗院門跡の尋尊は、大鳥居での合戦は前代未聞の悪行であり神罰が下ったのだと記している(第六十九大乗院寺社雑事記・文明7年5月14日条)。
春日社頭の戦いで敗れたのを機に、8月20日(7月19日)に弟・澄胤に家督を譲った[43]。これは、胤栄の強引な家中統制に対する批判を避ける意味もあったとされる[44]。敗戦後しばらく姿を見せなかったが、11月12日(10月14日)に弟・澄胤と大乗院の尋尊を訪れ門跡の渡御に合わせ出仕した[45]。この後胤栄は「古市西」と称される[46]。
応仁の乱 河内の合戦
1477年10月15日(文明9年9月9日)、河内國の奪還を目指す畠山義就は、義就派の澄胤と越智家栄に出陣計画を諮り、数日後には澄胤の部下が義就の妻と畠山義豊を護衛し越智方に送り届けた[47][48]。10月27日(9月21日)、義就は騎馬350・甲冑2,000を率いて京都を発し、山城から河内へ進入した。11月2日(9月27日)から若江城の戦いが始まり、古市兄弟(胤栄・澄胤)も出陣、越智の義就派に加え、筒井・箸尾為国ら政長派を含む大和国人諸勢が一斉に出陣した。
越智・古市勢は大和高田から北西へ進み[49]、藤井寺に布陣していた義就と合流、11月12日(10月7日)の誉田城合戦で勝利した。11月14日(10月9日)には越智・古市勢が河内の教興寺を防衛し、若江城の救援に向かった筒井順尊を撃退した。
11月18日(10月13日)、大和國では下狛城の大内政弘方大将・杉弘相が、甲冑300人・雑兵数千人を率いて木津城を陥落させた。木津に出陣していた伊賀の仁木、更に成身院順宣、筒井順尊も続いて自焼没落した。杉は兵を引き連れたまま木津から南都北部の般若寺へ進軍した[47]。杉の意図としては、1470年(文明2年)以来大内方に加勢、下狛大北城に駐留している古市勢と、東軍勢を一掃し義就派の大和入りを手助けしようという考えであったと思われる[50]。南都進軍の動きは前年にも、古市方の代官の北山氏が尋尊に報告している。
南都が攻められることを恐れた興福寺の学侶・六方は古市勢に知らせ、中御門らが杉と会合、古市代官井上九郎を下狛城へ派遣して事なきを得た。胤栄・澄胤兄弟も当夜のうちに河内から南都に馳せ帰り、西方院山天満社において甲冑100人で布陣して治安維持に努め、翌日には己心寺・法華寺の警護を家臣・長田家則に指示した。
12月16日(11月11日)、大内政弘、土岐成頼、畠山義就がそれぞれ帰国し、11年に及ぶ応仁の乱は終結した。杉は下狛城を自焼して帰国、下狛大北城を守っていた古市代官・井上九郎らは古市城に引き上げた[51]。
その後
1478年1月25日(文明9年12月22日)、子女が筒井方の佐川氏に嫁いだ[52]。
1491年1月14日(延徳2年12月5日)に遁世する[53]。
検断の記録
経覚の「経覚私要鈔」や尋尊の「大乗院寺社雑事記」には、胤栄が取り扱った検断の記録が残っている。
1457年8月27日(康正3年8月9日)、大和川支流の能登川・岩井川の用水に関して、神殿荘に配水すべきところを、鹿野苑側と見塔院方の両名が非常時と称して横取りしていた。春藤丸は裁判を行い、両者の弁明を聞くが理由は不透明、過去の判例・前例に基づき「従前どおり神殿荘へ」と配水を即時に切り替える裁決を下した[56]。この頃より古市家臣団統制の礎が築かれる。
1461年12月20日(寛正2年11月19日)、東門院領の宇多郡大野荘を山内の甲岡が押領したいとする訴訟で、春藤丸は実力行使に及ぶことはどんな理由があろうとできないと論止した[57]。甲岡側は、応永2年に故・円尋僧正が大野荘の年貢の中から二千疋を借り受けたという古い借状を根拠に荘園を取り立てようとしていたが、正長元年の天下徳政で借財は破棄されており、六方衆の評定も済んでいた。
1466年(文正元年)6月、大和見塔院の僧侶が四恩院の僧侶と下人を夜討ちする事件が発生した[58]。湯起請で真偽を立てることになったが、見塔院弁公の子息が逃散するなど情勢は混乱した。胤栄と筒井順永が仲介し、和解して双方撤兵にこぎつけた。
8月23日(7月13日)、古市一族の山村胤慶を追放した。椿尾氏の被官であった発志院が東北院の被官となり、椿尾と東北院の間で被官争いを起こした。そのとき東北院側が胤栄を、発志院側が山村胤慶に助けを求め両者が不和になったことが原因である。胤慶は半年後に赦免されている。またまた1470年(文明2年)には騒乱を起こした被官2名を処刑、一族を含めた30名を追放した[59]。処分された者の中には山村氏のように興福寺内では古市氏と同格の、官符衆徒になりうる家の者が含まれていたが、公的機関である興福寺がそれに異議を挟むことはできなかった[59][注釈 2]。
1473年8月17日(文明5年7月23日)、筒井氏の計略で伊勢街道沿いの萩原(現・宇陀市榛原萩原)の代官に多武峯が任ぜられたことに学僧・六方が反対する事件があった[62][63][64]。胤栄はこれを収めるため、筒井と会合を行い仲裁に努めた。しかし1年後まで収拾つかず、代官に反対する学僧・六方の十三人衆は出奔し、また奈良中の放火や年貢・反銭反米の横領を繰り返した。当初この事件には関与していなかった弟・澄胤も出奔し、十三人衆と同じく処罰を受けることになった。この事態は学僧であった澄胤が戦場に出るきっかけでもあり、この事件以降澄胤は学僧には戻らなかった[65]。
文化・風流
父・胤仙、祖父・胤憲の時代から古市城では文化風流が嗜まれており、胤栄もまた風流人であった。淋汗茶湯と呼ばれる風呂と茶を愉しむ寄り合いを行ったことで知られ、澄胤と共に茶の湯の祖村田珠光の弟子になっている。古市氏の後裔が江戸時代、小笠原総領家(小倉藩主)の茶道頭をつとめたため、小笠原家茶道古流の祖として名があげられる。
1447年8月25日(文安4年7月14日)から3日間にかけて古市城及び鹿野園では盂蘭盆風流踊、猿楽の興行が行われた[66]。2日目の演目は「佐々木乗馬(佐々木高綱の宇治川先陣争いを題材にした風流)」、3日目の夕方には「天岩戸」の風流・猿楽が行われた。配役は寺僧や子弟が担い、手力雄明神は寺僧の善明、天照大神は三郎衛門の子、天女は寺僧・延浄が演じた。このとき9歳の小法師丸(後の胤栄)も囃子役を務めた[67]。
1450年8月23日(宝徳2年7月16日)の盂蘭盆でも古市城で風流が行われ、古市小法師丸が仕切った。綱引き、雪マロハカシ(演目名)、露天や売り子の出し物が催され、締めくくりは笠踊りであったとされる[68]。
1458年2月11日(長禄2年1月27日)、経覚による千句連歌に参加した[69]。
1469年(文明元年)に風呂釜が壊れた際には修繕費用捻出のため、当時奈良において禁止されていた風流踊が踊れる小屋をつくり、入場料として6文をとった[67]。この小屋は大盛況となり、3千人もの人々が集まった[67]。安田次郎は「日本初の有料ダンスホール」であると評している[67]。
1472年2月22日(文明4年1月14日)、藤原道場にて連歌会が催され、胤栄が初句を担当し「あつさ弓春は八千代の初りな」と詠んだ[70][71]。
1473年8月11日(文明5年7月17日)、応仁の乱による混乱が落ち着いてきた頃、盂蘭盆風流は大乗院にて行われた。胤栄は自ら七福神の大黒天に扮して演じた[72][73]。臨席者は、一条兼良をはじめ京都から疎開してきた貴族や尋尊などの大乗院一門であった。門前には兵士が並び、上下の北面の若衆、それに吉田道祐、沙汰衆・中坊懐尊らが控える。夜のうち、御前の建物の前面九間に御簾を巻き上げ、丁灯十五張を吊した。東の渡殿側でも障子の上げ下ろし・御簾の下ろしを整え、女房衆は御簾の内に着座した。坊官・侍はそれぞれ障子際・縁に並び、北面衆・老衆は九間の南縁に席を占めた。中童子や子どもたちは妻戸のあたりから九間の縁いっぱいに横一列に並んだ。尋尊は、この芸能の見どころは一つにとどまらないほど盛大であったと記している[74]。