古市胤仙

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時代 室町時代中期
生誕 不明
別名 播磨公 播州
 
古市胤仙
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 享徳2年6月24日1453年8月8日
別名 播磨公 播州
氏族 古市氏
父母 父:古市胤憲 母:吉岡尼
兄弟 胤仙宜胤、胤俊
吐田氏娘
胤栄澄胤
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古市 胤仙(ふるいち いんせん)は、室町時代中期の武将大和国国人興福寺衆徒古市氏嫡流古市胤憲の子。宜胤の兄。胤栄澄胤の父。

官符衆徒棟梁に就任

大和国興福寺大乗院の筆頭衆徒であった古市胤憲の子として生まれる。同じ興福寺一乗院方衆徒の筒井氏と対立しており、筒井家の家督・摂津国河上五ヶ関務代官をめぐる大乗院門跡経覚成身院光宣の内紛に乗じて、経覚、豊田頼英小泉重弘らと結び、筒井を代官職から外す方向へ動く。

嘉吉3年7月11日1443年8月6日)、筒井方の十市遠清東大寺に発向、9月16日には古市と井戸氏と申し合わせた豊田頼英父子が奈良へ攻め上り、弥勒院・光林院・大興院、さらに鵲地蔵堂近所・今御門・寺林など在所を焼討ちした[1]。筒井方は三条辺で応戦したが、筒井実憲(光宣の弟)は退却、光宣も筒井館へ下向となった。この後、興福寺の六方・学侶が蜂起して光宣以下に罪科を加えた[2]。胤仙ほか頼英、小泉重弘は、管領畠山持国と申し合わせた経覚に奈良中雑務検断職を下知され、衆徒を統括する官符衆徒の棟梁に就任した(『経覚私要鈔』文安元年2月27日条)。官符衆徒棟梁として「寺務領の奉行」、「興福寺七郷・寺社の諸検断(司法・警察的な執行)」、「神事・法会の奉行」などの実務を行うことで、南都で“実務と権威”の両輪を握ることになる。

鬼薗山城の築城と自焼

文安元年1月17日1444年2月5日)、小泉重弘の兄弟・重栄が「光宣らは河内に潜伏している」と伝えると経覚は筒井討伐を命じた[2]。寺門の警護に当たっていた胤仙は、19日に興福寺禅定院の裏山(鬼薗山:現在の奈良ホテル)に要害を築く許可を頼英とともに経覚に願い出たが、大乗院門跡の目の前に築城する訳にはいかず認められなかった。しかし21日には南方で合戦があり、謀反者による筒井実順の切腹、筒井城の乗っ取り、味方の越智勢も討死するなど形勢が逼迫し、古市勢と六方衆で南都の夜廻り警護を強化していた。経覚は要害の築城を許可し、23日には筒井討伐の綸旨・御教書が沙汰され、胤仙含む衆徒・国民十六人へ出陣が下知された。

2月9日から11日にかけて胤仙は稗田方面(現在の大和郡山市)に布陣したが、状況は劣勢であった。26日の小南合戦では小泉重弘・越智春童丸と筒井総勢で戦闘となり小泉・越智が大敗、豊田も劣勢のため、胤仙は稗田の陣を引いて古市城へ撤収した。28日、古市を攻めに上ってきた窪城勢には山村胤慶・吉田通祐・鞆田室らが応戦したため戦況は好転し、豊田勢も筒井勢を打ち破った。しかし経覚は、同日夜明け前に自身に危害が及ぶのを察して楠葉西忍らを伴って上洛し、4月19日まで京都にいた[2]。胤仙は3月、光宣の弟の筒井実憲に興善院を攻められたがこれに勝利し、実憲は喜多院で自害する。

6月4日、鬼薗山城築城が本格化し、古市・豊田・小泉・六方衆・経覚の陣屋やそれぞれの兵糧倉まで整えられた。築城には興福寺の命として数千人が動員されたとされる[3]8月10日に経覚が城に入り、対筒井の臨戦態勢が固まる。

文安2年9月13日1445年10月13日)、光宣が勢いを盛り返し、鬼薗山城攻めを開始。豊田勢が敗北したため鬼薗山城を自焼し、胤仙は古市城に戻る。

経覚の古市迎福寺への移住

文安4年2月17日1447年3月3日)、胤仙は安位寺(現在の御所市大字櫛羅小字寺屋敷)に逃れている経覚に書状を出す。 この後、古市・豊田300余兵が筒井の領地である奈良の東大寺領転害郷を焼き討ちにした。

4月13日午前六時頃、胤仙は安位寺へ馬・人夫を到着させ、「中風治療」を名目に経覚を安位寺から動座させる作戦を開始した。 道中では、古市の舎弟・胤次、代官・室丹波房、吉田通祐をはじめ、豊田・奥の手勢も次々と合流し、古市主導の厳重警護による大移送を構成。 翌日正午過ぎに古市へ迎え入れると、胤仙が直ちに対面し、九歳の春藤丸(のちの胤栄)も初めて経覚に拝顔した。 以後、古市は迎福寺を経覚の拠点として整え、経覚を“自陣の権威”として政治前線に復帰させた。

7月17日、馬借蜂起が南都にも波及し筒井は対処出来ずに一時南都を退却したため街は混乱した。 混乱に乗じ、胤仙は筒井方に夜討ちを行い、19日には兵150人で奈良へ押し寄せた。8月まで筒井と古市の戦いは続いた。

家中の変事

文安5年7月15日1448年8月14日)、妻(春藤丸の母)逝去。10月26日に百ヶ日を執り行う。 11月13日、胤仙は吐田氏の娘を継室として迎える。後に継室との間に澄胤が誕生する。

文安6年2月16日1449年3月10日)、 胤仙は再度南都に攻撃をかけるも状況は不利。胤仙は撤兵したが弟・胤俊が西から深追いして討死した。古市方の戦死者7名、手負数10名。 翌17日に胤俊の葬礼を執り行い、安位寺・地元国人らも参列した。 同年、春藤丸が重篤に陥るが、祈願と加護で快癒した。この折、胤仙は「以後、南都攻撃は慎む」旨の誓願を行った。

神木動座級の動員 死去、そして和睦へ

宝徳元年11月2日1449年12月15日)、経覚とともに上洛、6日に管領・畠山持国に礼参し「用途5千疋、馬、太刀」を進上した。返礼として「太刀、緞子、盆、月毛の馬」を与えられた。

宝徳3年4月28日1451年5月28日)、経覚私要鈔には以下の事件が残されている。 「胤仙の母である吉岡尼が神社に参詣したところ、敵方が現れて人質に取ろうとし、新薬師寺のあたりまで敵方が迫っていた。吉岡尼は白毫寺に輿を置き、徒歩で参詣した。敵は輿だけを待ち受け、新薬師寺の前を通ったとしても、歩いている者には目を向けなかったため、無事に通り抜けることができた。これほどの幸運は比類がない。古市にはすでに取り囲まれているという噂が立っており、皆が仰天したが、何事もなく済んだのである。まことに胤仙は運が強い。」

宝徳3年(1451年)、南都領・摂州河関の関務をめぐり、神木動座級の大動員(六方大衆・裏頭僧7~800、甲冑者1,000)がある。古市・豊田・小泉は香具山に結集し、書状を京都へ上申しようとする。

享徳2年3月11日1453年4月19日)の午後10時頃、胤仙は成身院光宣の本拠城を奇襲した。光宣の弟・筒井尊覚(実憲の兄)を含む10人余を討取り、撤収時に成身院を焼き翌朝に古市に凱旋した。この戦いでは、楠葉西忍の長男・新衞門尉元次が胤仙配下として参戦している[4]

同年5月、胤仙が発病。傷寒(チフス) であったとされる。実戦は豊田父子が主導したが6月24日に胤仙入滅。これをきっかけに筒井氏と経覚派は歩み寄り、翌享徳3年(1454年)に和睦した。

文化・風流

参考文献

脚注

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