司徒詡
From Wikipedia, the free encyclopedia
貝州長史の司徒倫の子として生まれた。若くして読書を好み、『五経』の重要な意義に通じた。弱冠にして郷挙に応じたが、及第しなかった。天祐13年(916年)、李嗣源が安国軍節度使となると、司徒詡は赴いて李嗣源に面会し、礼遇を受けた。磁州で官吏として試用され、永年県令・項城県令を歴任し、いずれも有能で知られた。後唐の天成元年(926年)、李従珂が河中節度使となると、司徒詡は召し出されて河中節度従事となった。長興元年(930年)、洛陽に召還されて、左補闕・史館修撰に任じられた。秦王李従栄が幕府を開くと、司徒詡は戸部員外郎となり、河陽節度判官をつとめた。長興4年(933年)、李従栄が殺害されると、司徒詡は寧州司馬に左遷された。清泰元年(934年)、入朝して兵部員外郎となった[2]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、司徒詡は刑部郎中に転じ、度支判官・枢密直学士をつとめた[3]。天福7年(942年)、兵部郎中から左諫議大夫に任じられた[4]。天福8年(943年)、給事中となり[5]、集賢院学士・判集賢院事をつとめた[6]。開運元年(944年)、右散騎常侍に転じた[7]。開運2年(945年)、工部侍郎に任じられた[8]。知許州軍州事・知斉州軍州事・知亳州軍州事を歴任した[3]。後漢の乾祐元年(948年)、礼部侍郎となった[9]。三度貢挙を主催した。司徒詡は談論を得意とし、酒を好み、賓客を喜び、仏教を信奉した。乾祐2年(949年)、呉越への使節をつとめた。航海中に水の色が墨色に変わるのを見て、舟人が「その下は龍宮です」というので、司徒詡は仏教経典の入った函を海中に投げ入れた。まもなく梵唄絲竹の音が船下に響いたという[3]。
後周の広順元年(951年)、司徒詡は刑部侍郎に転じた[10]。戸部侍郎に任じられた[11]。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、司徒詡は吏部侍郎となった[12]。顕徳2年(955年)、太子賓客に転じた[13]。顕徳4年(957年)、太常寺卿に任じられた[14]。顕徳5年(958年)、本官のまま致仕した[15]。顕徳6年(959年)5月23日、洛陽の私邸で死去した。享年は66。工部尚書の位を追贈された[3]。