吉沢宗一

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国籍 日本の旗 日本
出身地 山形県
生年月日 (1951-02-08) 1951年2月8日(75歳)
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
吉沢宗一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山形県
生年月日 (1951-02-08) 1951年2月8日(75歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 東京美浦・佐藤正二(1972 - 1981)
美浦・フリー(1981 - 1995)
初免許年 1972年3月11日
免許区分 平地
騎手引退日 1995年7月31日
1994年11月20日(最終騎乗)
重賞勝利 4勝
通算勝利 3800戦364勝
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吉沢 宗一(よしざわ そういち、1951年2月8日 - )は、山形県出身の元騎手・現評論家

息子の吉沢七留(なる)は中舘英二厩舎の調教助手[1]

兄は元国鉄職員で元JR東日本社員であり、須田鷹雄が就職活動でJR東日本に入社する際の面接官であった。

1967年4月から馬事公苑騎手養成長期課程に17期生として入所し、東信二小島貞博と同期生になる[2]

1972年3月東京・佐藤正二厩舎からデビューし、同11日中山第1競走4歳未勝利・ミサワラップ(14頭中4着)で初騎乗はを果たすと、4月29日福島第2競走4歳以上200万下・ニシノセイユウで初勝利を挙げる[3]11月11日12日の福島で初の2日連続勝利[4]を挙げ、初年度は6勝[5]をマーク。

2年目の1973年には1月27日の東京で初の特別勝ちと初の1日2勝[6]を挙げるなど、初の2桁勝利で20勝台となる23勝[5](全国30位)と躍進するが、その後の5年間の勝利数は1桁と2桁を繰り返す[5]

3年目の1974年福島大賞典・ラウンドフアーザーで51kg[7]と急な雨での道悪を活かし、ノボルトウコウを抑えて[7]重賞初勝利を挙げた[8]

1977年には萩本欽一の所有馬パリアッチでクラシックに騎乗し、皐月賞8着、東京優駿では3番手から下げようとしたところ最後尾まで下がって[8]9着であった[9]。皐月賞の前哨戦からレース中に落鉄するようになり、本番でも蹄鉄を落として走っていた[9]。ダービー前の追い切りでも鉄が落ちるようになり、ダービーの時には蹄鉄を止める釘を打てるツメの部分が殆ど無くなってしまった[9]。ダービー本番も落鉄覚悟のレースとなり、レース後2本の蹄鉄が落ちていた[9]

後に吉沢は『記憶に残る一頭』にパリアッチ[9]、『悔しかったレース』にパリアッチで挑戦した東京優駿を挙げ[8]ディープインパクトを使わずに特殊な接着剤で蹄鉄を固定して二冠馬になったのを引き合いに出して「当時、その技術があれば、パリアッチももう少し違う結果が出せたかも知れません。」[9]、「うまく折り合いがつけば、勝ち負けになっていたかもしれない」[8]と語っている。

1979年から1990年まで12年連続2桁勝利[5]を記録し、その間の1981年フリーとなると、1982年には自己最高の30勝[5](全国27位)をマーク。

1984年には自身が後に最強馬に挙げたマルゼンスキー[9]産駒で、皐月賞馬ハワイアンイメージの3つ下の妹[10]に当たるプロメイドでカブトヤマ記念に騎乗[11]中島啓之に乗り替わっての初騎乗[11]であったが、11頭中11番人気ながらアンドレアモンを抑えて[11]、10年ぶりの重賞制覇[12]を挙げる。

1985年には関屋記念タカラスチールで重賞3勝目[13]を挙げ、3年ぶりで最後の30勝[5](全国27位)をマーク。

1986年からはアローエクスプレスを母父に持つメークアスマートの主戦騎手として活躍し、1987年はダービーデー[14]の駒草賞(900万下)を10頭中10番人気2着、初重賞のラジオたんぱ賞を8頭中8番人気4着と最低評価ながら好走[15]。初の古馬相手となった天の川ステークス(900万下)ではカシマウイングをハナ差抑えて人気に応え[16]セントライト記念ではマティリアルが後方で伸びあぐねる[17]中をダービー馬メリーナイスの3着に追い込んだ[15]1988年新潟大賞典では3年ぶりで最後の重賞制覇[18]を挙げるが、11頭全馬が0.5秒以内にひしめく僅か3、4馬身差の中での大接戦を制した[19]。 

1986年にはナスノチグサを母に持つナスノプリンスで新潟大賞典2着[20]福島記念ではドウカンヤシマスピードヒーローを抑えてランニングフリーの3着[21]に入った。

1988年には後にフジサイレンスの伯父となる[22]ダイワダグラスに福島芝1200mで行われた関屋記念から騎乗し、逃げ切った柴田善臣のヒシノリフオーにアタマ差迫ると同時に仁平健二のプリンシプルをハナ差抑えての2着[23] [24]。その後はダートの根岸ステークスウィニングスマイル、芝のCBC賞トーアファルコンの3着に入った[25]

1990年にはタカラスチールの半弟[26]タカラフラッシュに騎乗し、1番人気に推された七夕賞では12番人気イダテンターボと併せながら進出したが、最後の競り合いでハナ差及ばず2着に終わる[27]田中清隆厩舎の転厩初戦で重賞初出走となった[28]朝日チャレンジカップでは不良馬場で初めて逃げた[29]ファンドリポポを1番人気シンエイロータスと共に終始2番手で追走し、最後はシンエイロータスが下がる中、ナリタハヤブササンドピアリスに先着の3着に粘った[30]

1992年には稗田研二厩舎のヤマニンスキー産駒マリアキラメキで新馬を逃げ切り[31]、芙蓉ステークスではマイネルリマークに勝利して2連勝[31]を飾るなど15勝[5]を挙げるが、2桁勝利は同年が最後[5]となった。

1993年には京王杯スプリングカップをマイネルヨースでヤマニンゼファーシンコウラブリイに次ぐ3着に逃げ粘り[32]新潟記念では母の母にジュピックを持つ鶴留明雄厩舎の関西馬リワードプランダーで3着に入った[33]

1994年には小倉大賞典をリワードプランダーで2着に粘って馬連万馬券[34]の波乱を起こすが、7月24日の新潟第4競走4歳未勝利では父ダイシンフブキ・母父アスワンの15頭中14番人気ダイヤモンドナイルに騎乗し[35]、父アンバーシャダイ・母父カーネルシンボリで15番人気キッポーウイン[36]の2着に入り、馬連27万1230円の大波乱となる[37]。的中は1416票で、馬連史上最高であると同時に1959年に出た連単26万7350円を超えて、連勝の最高記録となった[38]

1994年10月30日の東京第4競走4歳以上500万下・ダービーベターが最後の勝利[39]11月20日の福島第6競走4歳未勝利・タイハクジャパン(14頭中12着)が最後の騎乗[39]となり、1995年7月31日付で現役を引退[40]

引退後は競馬飼糧[40]→JRAファシリティーズに勤務する傍ら、1996年よりテレビ東京土曜競馬中継ウイニング競馬』にレギュラー解説者として出演。パドック解説やレース解説を担当していたが、2019年12月28日でアシスタントの柴田阿弥と共に卒業[1]

2020年から2024年まではTwitter→Xで長年培った経験をもとにした、レースの調教診断、パドック診断、レース分析を公開[41]

2020年からは競馬予想会社「シンクタンク」に情報ルートとして加入し[41]金曜日スポーツニッポン面で重賞競走の調教診断「The Judge」を掲載中。

騎乗成績

通算成績1着2着3着4着以下騎乗回数勝率連対率
平地 364 366 364 2706 3800 .096 .192

主な騎乗馬

  • ラウンドフアーザー(1974年福島大賞典)
  • プロメイド(1984年カブトヤマ記念)
  • タカラスチール(1985年関屋記念)
  • メークアスマート(1988年新潟大賞典)

出演番組

  • 土曜競馬中継→ウイニング競馬(テレビ東京)

書籍

関連項目

脚注

外部リンク

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