須藤時一郎
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| 須藤 時一郎 すどう ときいちろう | |
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| 生年月日 | 1841年10月16日(天保12年9月2日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1903年4月15日(61歳没) |
| 所属政党 | 立憲改進党→帝国財政革新会 |
| 親族 |
弟・沼間守一(東京府会議長) 弟・高梨哲四郎(衆議院議員) |
| 選挙区 | 東京府第6選挙区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1894年9月 - 1897年12月25日 |
| 在任期間 |
1896年3月10日 - 1896年3月12日 1896年6月16日 - 1899年6月6日 1899年6月15日 - 1900年1月16日 |
| 在任期間 | 1890年8月 - 1894年2月 |
その他の職歴 | |
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浅草区会議長 ( - ) | |
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浅草区会議員 ( - ) | |
須藤 時一郎(すどう ときいちろう、1841年10月16日(天保12年9月2日[1])- 1903年(明治36年)4月15日[2])は、幕末の旗本、明治期の大蔵官僚・銀行家・政治家。衆議院議員、東京府会議長、東京市会議長。旧姓・高梨。
幕臣・高梨仙太夫(仙翁[1])の長男として[3][4]、父の赴任地、陸奥国伊達郡川俣陣屋(現福島県伊達郡川俣町)で生まれた[3][5]。幕臣・須藤仙也の養子となる[1][3][4][5][6]。父と共に江戸に帰り塩谷宕陰に漢学を、斎藤弥九郎に剣術を学んだ[3][5]。評定所留役[4]から外国方に転じ[3][4]、1863年(文久3年)横浜鎖港談判使節団に加わり渡仏した[2][3][4][7]。帰国後、歩兵指図役頭取に就任し[3][4]、戊辰戦争では弟沼間守一らと東北地方に転戦し[3][4]、奥羽越列藩同盟の崩壊により捕らえられ[3]、江戸に護送されて監禁された[3]。静岡藩に出仕し軍事掛附属として沼津兵学校の庶務を担当した[3][4]。
1870年(明治3年)上京し、尺振八の創設した共立学舎の英語教師を務めた[3][4]。1872年(明治5年)大蔵省に出仕し[3]、同翻訳掛、同七等出仕兼紙幣寮(現国立印刷局)六等出仕、紙幣助、銀行課長などを歴任した[2][3][4][7]。1877年(明治10年)に退官し、第一国立銀行顧問、第三十九国立銀行嘱託、第四十国立銀行嘱託、第一国立銀行取締役などに在任した[3][6]。その他、東京貯蓄銀行監査役、東京板紙取締役なども務めた[1]。
弟・沼間守一の嚶鳴社に加わり、自由民権運動を推進した[3]。政界では、浅草区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同議長などを務めた[1][2][3][7][8]。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(東京府第6区、帝国財政革新会)で当選し[4][9]、その後、同志会に所属し衆議院議員に1期在任した[2][7]。
国政選挙歴
- 第1回衆議院議員総選挙(東京府第6区、1890年7月、立憲改進党)次点落選[10]
- 第3回衆議院議員総選挙(東京府第6区、1894年3月、立憲改進党)次点落選[10]
- 第4回衆議院議員総選挙(東京府第6区、1894年9月、帝国財政革新会)当選[9]
- 第7回衆議院議員総選挙(東京府東京市、1902年8月、無所属)落選[11]