名和顕孝

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 永禄4年(1561年
死没 慶長13年(1608年11月25日[1]
官位 従五位下[1]、左兵衛尉、伯耆守[1]
 
名和 顕孝(伯耆 顕孝)
時代 戦国時代
生誕 永禄4年(1561年
死没 慶長13年(1608年11月25日[1]
官位 従五位下[1]、左兵衛尉、伯耆守[1]
主君 島津氏豊臣秀吉小早川隆景
氏族 名和氏宇土氏(伯耆氏)
父母 父:名和行直[1]
兄弟 顕輝行良
福(朽網鑑康の娘、法名:持松院殿久室妙昌大姉)[2]
顕武長興、ドナ=ジョアナ(大矢野種基室)、顕貞
テンプレートを表示

名和 顕孝(なわ あきたか)は、戦国時代武将宇土名和氏の6代当主宇土城主。『まんが日本昔ばなし』の「孝行娘」に登場する「若殿さま(伯耆守顕孝)」と同一人物である[3]

1561年永禄4年)、肥後国の武将・名和行直の子として生まれる。

1579年天正7年)、島津氏に対して城氏と共に接近[4]

1587年(天正15年)、豊臣秀吉による島津氏征伐に巻き込まれ降伏し、豊臣軍に加勢して功を挙げた[4]。これにより秀吉から本領を安堵されるが、同年に起きた肥後国人一揆に際して、肥後国主に封ぜられた佐々成政へ合力せず中立を保ったことを咎められる。顕孝はみずから釈明すべく大坂へ赴くが、城代を任せた弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐され改易となった[5]1588年(天正16年)からは筑前国小早川氏に属した[4]

1608年慶長13年)、死去[4]

跡目は子の長興が継ぎ、筑後柳川藩主・立花宗茂に召し抱えられ、「伯耆(ほうき)」を称した。子孫は柳川藩士として存続し、幕末に至って再び「名和(なわ)」を称した。時の当主・名和長恭男爵に叙せられ、名和神社神職となった。

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI