呂琦
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経歴
劉守光が滄州を攻め落とすと、義昌軍節度使の劉守文と義昌軍節度判官の呂兗は捕らえて殺害された。呂兗の子の呂琦はときに15歳だったが、官吏に捕まり、殺されそうになった。趙玉に助けられて、危難を免れた。姓名を変え、汾州・晋州を遊歴した。天祐11年(914年)、晋王李存勗が覇府を開くと、呂琦は代州軍事判官に任じられた。任期を満了して太原府に帰り、監軍使の張承業に器量を重んじられて、礼遇された[1][2]。
後唐の天成元年(926年)、呂琦は殿中侍御史となった。駕部員外郎に転じ、侍御史・知御史台雑事を兼ねた。ときに河陽の府庫の役人が財を盗んだ事件が発覚し、軍巡院が調査に当たった。軍巡使の尹訓は賄賂を受け取って、事実を捻じ曲げた。まもなく冤罪の訴えが宮中に届いたので、呂琦はこれを取り調べた。尹訓の悪行を調べ上げると、尹訓を処断するよう求めたが、妨げられて処罰されなかった。呂琦は上奏を繰り返してやまず、尹訓は逃れられないと知って自殺した。呂琦の刑事裁判は明快で、冤罪を晴らされた者も多かったので、朝廷は呂琦の公正実直を認めた。のちに礼部郎中となり、史館修撰をつとめた[3][4]。清泰元年(934年)、呂琦は礼部郎中のまま、枢密直学士をつとめた[5]。清泰2年(935年)、給事中に転じた[6]。清泰3年(936年)1月、端明殿学士となった[7]。3月、御史中丞に任じられた[8]。7月、礼部侍郎に転じた[9]。河東節度使の石敬瑭が二心を抱いていることが明らかになると、呂琦は契丹と結ぶよう末帝に勧めたが、末帝は聞き入れなかった[10]。石敬瑭が太原府で起兵すると、末帝は懐州に赴き、趙徳鈞を派遣して祁県の団柏谷に軍を駐屯させた。末帝は呂琦がかつて趙徳鈞の幕下にあったことから、都統使として趙徳鈞の軍を労わせた。呂琦は北陲で軍を観閲すると、忻州に館を構えた。石敬瑭が晋安寨を下すと、使者を派遣して忻州に降伏を勧告したが、呂琦はその使者を斬り捨てて末帝に奏聞した。ほどなく忻州の兵1000人を率いて間道から洛陽に帰った[11]。
後晋の天福元年(同年)、高祖石敬瑭が洛陽に入ると、呂琦は使者を斬った責めを受けず、秘書監に任じられた[11][12]。天福3年(938年)、再び礼部侍郎となった[13]。天福4年(939年)、刑部侍郎に転じた[14]。天福6年(941年)、『唐書』の編纂に参与した[15]。天福7年(942年)、戸部侍郎に任じられ、鹵簿使をつとめた[16][17]。天福8年(943年)、兵部侍郎となった[18]。階位は金紫光禄大夫に進み、爵位は開国子となった[11]。この年のうちに死去した[12]。享年は50。