周光輔

From Wikipedia, the free encyclopedia

周 光輔(しゅう こうほ、903年 - 937年)は、五代十国時代軍人本貫朔州馬邑県[1][2]

経歴

10歳で幽州牙内兵馬使に任じられ、父の周徳威に牙兵を委ねられた。成長すると容貌魁偉で、軍事に練達した。天祐15年(918年)、父が死去すると、嵐州刺史に任じられた。後唐荘宗に従って後梁を平定し、検校尚書左僕射・汝州防禦使に転じ、協謀定乱功臣の号を賜った。天成元年(926年)、汾州刺史に転じた。天成4年(929年)、入朝して右監門衛大将軍となった。長興から清泰年間にかけて、陳州懐州磁州の刺史を歴任し、検校司徒を加えられた。天福元年(936年)、後晋の高祖石敬瑭が即位すると、光輔は蔡州刺史に任じられた。天福2年(937年)、蔡州で死去した。享年は35。太保の位を追贈された[3]

家族

  • 父:周徳威(後唐の内外蕃漢馬歩軍総管・盧龍軍節度使)
  • 弟:周光貞(義州刺史・乾州刺史・諸衛将軍)
  • 弟:周光遜(蔡州刺史)
  • 弟:周光賛(青州行軍司馬となったが、楊光遠の乱に加担して、商州司馬に左遷された。赦令に遭って召還され、ほどなく家で死去した)[3]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI