味土野

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味土野
味土野大宮線道路上から見上げた味土野集落
味土野大宮線道路上から見上げた味土野集落
味土野の位置(京都府内)
味土野
味土野
北緯35度39分04.1秒 東経135度09分15.5秒 / 北緯35.651139度 東経135.154306度 / 35.651139; 135.154306
日本の旗 日本
都道府県 京都府
市町村 京丹後市
大字 弥栄町須川
人口
(2000年国勢調査
  合計 7人
郵便番号
627-0102
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味土野(みどの)は、京都府京丹後市弥栄町須川にある集落1582年(天正10年)の本能寺の変後、明智光秀の三女である玉(後の細川ガラシャ)が細川忠興の命で幽閉されたことで知られる。

現在は味土野と表記されるが、かつては三戸野と表記しており[1]細川ガラシャが詠んだ歌には「三戸野山」が登場する[2]。「ミト/ミド」は「水の浸しやすい処、水の出口」であり、分水嶺に近い水源地を意味する[1]。「ガラシャの御殿(みどの)があったことが地名の由来」とする説もあるが、郷土史家の澤潔はこの説を誤りだとしている[1]

地理

位置

金剛童子山

味土野は宇川の源流部に近い高原にある集落である[1]。標高613メートルの金剛童子山の南東麓にあり、集落中心部にあるガラシャ荘の標高は360メートルである。この地点は金剛童子山の八合目付近とされ[3][4]、味土野に至る道路沿いには4kmほどにわたって人家が存在しない[3]。宮津市木子、駒倉の西に位置し、近世には京丹後市大宮の延利、与謝野町男山に抜ける道があった[5]

「幽閉地」という言葉から想像される環境とは異なり、高原にある味土野は日差しが明るく、周囲の山々の四季は美しい[3]。集落から金剛童子山の頂上に向かう登山道があり、山頂まで徒歩約50分である。豪雪地帯にあって標高が高いため、冬季には毎年のように約2メートルの積雪がある[6]

集落内の地理

味土野は現在では人家はほとんどなく、幽閉されたと伝わる場所は山中の小さな丘の上である。面積20平方メートルほどの平坦な部分が丘の上にあり、この丘は「女城」「御殿」「おさきの岡」などと呼ばれる[7]。女城跡には「細川忠興夫人隠棲地」の石碑がある[8]。女城跡から谷を隔てた北方には男城(おじろ)跡があり、かつて細川ガラシャを警固する武士が待機していたという[9]。20世紀末までは、ガラシャが祀った石像観音や、洗顔を行った化粧池などがあったが、現在も見られるガラシャの時代の名残は井戸跡のみである[10]

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Maps: terms of use
150 m
6
5
4
3
2
1
味土野周辺の地図
1
ガラシャ荘
2
女城跡(「細川忠興夫人隠棲地」石碑)
3
「ふるさと味土野之跡」石碑
4
ガラシャ大滝展望所
5
男城跡
6
味土野ガラシャ大滝

味土野ガラシャ大滝

味土野ガラシャ大滝
所在地 京都府京丹後市弥栄町須川
位置 北緯35度39分02.7秒 東経135度09分28.4秒 / 北緯35.650750度 東経135.157889度 / 35.650750; 135.157889
落差 35 m
水系 宇川支流
プロジェクト 地形
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味土野集落の東方には宇川が流れている。集落の約500メートル東、宇川支流の標高260メートル地点には味土野ガラシャ大滝(味土野大滝)があり[11]、丹後半島を代表する滝とされる[12]。『京都府レッドデータブック』によると落差は約20メートル、『日本の滝』によると落差は約35メートル[12]玄武岩の岩壁を流れ落ちる細い滝である[13]

丹後地方最大の滝は与謝郡伊根町布引滝であるが、上流域の流域面積は布引滝より味土野ガラシャ大滝のほうが大きいため、水量が多く迫力があるとされる[11]。味土野ガラシャ大滝は京都府レッドデータブックに掲載されており、2002年版・2015年版ともに「要継続保護」となっている。

2019年(令和元年)春には京都府道655号味土野大宮線の近くに味土野ガラシャ大滝展望所が設置され[14]、4月16日に展望所の開眼法要が営まれた[15]。かつては味土野ガラシャ大滝の滝つぼにアマゴがおり、住民が手づかみで採っていたという[15]。なお、展望所が設置されるまでは味土野大滝と呼ばれていたが、「麒麟がくる京丹後プロジェクト推進協議会」によって味土野ガラシャ大滝と命名された[15]

世帯数と人口

人口の変遷
1955年(昭和30年) 162人
1960年(昭和35年) 161人
1965年(昭和40年) 103人
1970年(昭和45年) 34人
1975年(昭和50年) 10人
1980年(昭和55年) 8人
1985年(昭和60年) 6人
1990年(平成2年) 6人
1995年(平成7年) 7人
2000年(平成12年) 7人
世帯数の変遷
1955年(昭和30年) 34戸
1960年(昭和35年) 33戸
1965年(昭和40年) 25戸
1970年(昭和45年) 12戸
1975年(昭和50年) 4戸
1980年(昭和55年) 4戸
1985年(昭和60年) 4戸
1990年(平成2年) 4戸
1995年(平成7年) 5戸
2000年(平成12年) 5戸

歴史

脚注

参考文献

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