弥栄町
日本の京都府竹野郡にあった町
From Wikipedia, the free encyclopedia
象徴
地理
京都府北部の丹後半島内陸部に位置する。西部は小さな盆地、東部は丹後半島の山々が控えた。総面積は80.38平方キロメートル[3]。
東部の山地は山頂や稜線はなだらかであるが、谷は深く浸食されており、きわめて急峻な山腹となっている[4]。弥栄町の中部は全体的に標高の低い丘陵地となっており、竹野川周辺の比較的狭い地域が平野部である[4]。平野部は第二次世界大戦中には軍用飛行場の建設予定地の候補とされたこともあったが、冬には大陸からの季節風と温かい対馬海流の影響を大きく受け[4]、霧が多発する気象条件や周囲の地形や風向きが好ましくないとされた[4][5]。
変化に富んだ地形や気候から、豊富な動植物の生息環境があり、山地には自然植生に近いブナ林やシデ林があり、シデ林については貴重な群落として「味土野のシデ林」の名称で環境庁(現環境省)の選定を受けている[4]。また、京都府の天然記念物であるアベサンショウウオなどの生息も確認されている[4]。
隣接していた自治体
人口と世帯数
| 人口の変遷 | |||
|---|---|---|---|
| 1970年(昭和45年) | 6,722人 | ||
| 1975年(昭和50年) | 6,701人 | ||
| 1980年(昭和55年) | 6,501人 | ||
| 1985年(昭和60年) | 6,388人 | ||
| 1990年(平成2年) | 6,275人 | ||
| 1995年(平成7年) | 6,125人 | ||
| 2000年(平成12年) | 6,132人 | ||
| 世帯数の変遷 | |||
|---|---|---|---|
| 1970年(昭和45年) | 1,570戸 | ||
| 1975年(昭和50年) | 1,630戸 | ||
| 1980年(昭和55年) | 1,632戸 | ||
| 1985年(昭和60年) | 1,665戸 | ||
| 1990年(平成2年) | 1,677戸 | ||
| 1995年(平成7年) | 1,710戸 | ||
| 2000年(平成12年) | 1,779戸 | ||
歴史
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行に伴い、竹野郡吉野村・溝谷村・鳥取村・深田村、与謝郡野間村が発足。
- 1933年(昭和8年) - 吉野村・溝谷村・鳥取村・深田村が合併して弥栄村が発足。京都府知事に名称が一任された結果として"弥栄"となった[8]。
- 1948年(昭和23年)4月 - 野間村の所属が与謝郡から竹野郡に変更される。
- 1955年(昭和30年)3月1日 - 弥栄村・野間村が合併して弥栄町が発足。
- 1963年(昭和38年) - 昭和38年1月豪雪(三八豪雪)を機に野間地区の住山・熊谷・尾崎・平家・茶園・黒川の集落全12戸が離村した[9]
- 2004年(平成16年)4月1日 - 弥栄町・丹後町・網野町・中郡峰山町・大宮町・熊野郡久美浜町の6町が合併して京丹後市が発足。同日弥栄町廃止。
行政
天平時代には町内域の鳥取郷からあしぎぬが、芋野郷からは赤米が献上された歴史のままに、絹織物と農業とを基幹産業としつつ、戦後の経済成長のなかで過疎化が進んだことから、福祉の町づくりを重視した[3]。
2005年(平成17年)、在職中の公共工事の指名競争入札の際に予定価格を漏らしたとして、元町長の有田光亨が競売入札妨害容疑で逮捕された[10]。
歴代町長
| 代 | 就任日 | 退任日 | 名前 |
|---|---|---|---|
| 初代 | 1955年3月23日 | 1957年1月30日 | 平林信治 |
| 2代・3代 | 1957年2月10日 | 1963年4月4日 | 由良喜六 |
| 4代 | 1963年4月30日 | 1967年3月15日 | 上田一郎 |
| 5代~11代 | 1967年4月28日 | 1995年4月27日 | 森岡行直 |
| 12代~14代 | 1995年4月28日 | 2004年3月31日 | 有田光亨 |
経済
教育
小学校
- 弥栄町立溝谷小学校
- 弥栄町立鳥取小学校
- 弥栄町立黒部小学校
- 弥栄町立吉野小学校
- 弥栄町立野間小学校
中学校
- 弥栄町立弥栄中学校


