味鄒尼師今
From Wikipedia, the free encyclopedia
治世
もっぱら百済との戦いが記録に残っているが、いずれも戦勝を収めている。266年8月に烽山城(慶尚北道栄州市)が攻められたが、城主の直宣がこれを敗走させた。この功績を称え、直宣を一吉飡(7等官)に引き立てるとともに、城の兵卒にも褒美を与えた。278年10月に、再び百済が侵入してきて槐谷城(忠清北道槐山郡)を包囲したが、波珍飡(4等官)の正源が撃退した。283年9月にも百済は新羅に攻め入り、10月には槐谷城を包囲したが、一吉飡の良質がよく防いだという。
在位23年にして284年10月に死去した。大陵(別名竹長陵)に埋葬された。『三国遺事』によれば、陵は興輪寺(慶州市)の東にあり[2]、竹葉軍の伝説にちなんで竹現陵ともいう。
竹葉軍の伝説
金氏王統の始祖
『三国史記』巻32・祭祀志によれば、第36代の恵恭王の時代に五廟を定めたとあるが、そこには金氏の始祖として味鄒王(尼師今)を位置づけ、三国統一の偉業を為した太宗(武烈王)・文武王とをあわせて代々不変の宗とし、あわせて父景徳王・祖父聖徳王を加えて五廟としたという。王の名が幾通りにも記されそれぞれに音通することは、その伝承が古いことを表しており、また、味鄒の音(및)は「元・本」を意味し、味鄒王の表現は始祖王を表すものと考えられている。金氏の始祖については金閼智、勢漢、味鄒王の諸説(ほかに17代奈勿王とする伝承もある)が古くから平行して存在していたと見られている。(→井上訳注1980 pp.64-65.)
