和歌森太郎
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- 出生から修学期
1915年、千葉県銚子町で生まれた[1]。東京府立第四中学校を経て、東京高等師範学校を卒業し、東京文理科大学に進学。国史学専攻で学び、1939年に卒業[2][3]。
- 歴史学研究者
卒業後は東京文理科大学大学助手に採用された。加えて国民精神文化研究所に籍を置き[1][4]、堀一郎や萩原龍夫らとともに国民の信仰生活に関する調査をおこなった。
- 太平洋戦争後
その後、東京文理科大学教授に昇格し、東京教育大学教授となった[1]。1951年、博士論文『国史に於ける協同体の研究 : 特に神社との関係について』を東京教育大学に提出して文学博士の学位を取得[5]。東京教育大学文学部日本史学専攻では、桜井徳太郎らとともに古代史講座に属し、「東京教育大学派」とも呼ばれる後進を育成した。しかし、文学部長[1]を務めている際に筑波大学構想がおこり、同大学の筑波移転には強く反対し、また移転反対派の牙城であった文学部においてもその旗手として論陣を張り、評議会や理学部を中心とした推進派と対立したことから、1966年には学部長を辞任、同大学を去った(後に東京教育大学名誉教授)。1976年から亡くなる1977年まで、都留文科大学学長をつとめた。墓所は小平霊園。
研究内容・業績
- 歴史学者の松本彦次郎(古代および中世庶民史)、肥後和男(文化史)などに教えを受け、修験道史研究の第一人者となる。一方で西田直二郎門下である肥後の文化史、および1941年から師事した柳田國男の民俗学の影響を受け、従来の文献資料に民俗資料を取り込んだ歴史民俗学的研究を開拓した。
- 教鞭をとった東京教育大学文学部日本史学専攻では、桜井徳太郎(民間信仰史)とともに古代史講座に属し、史学方法論専攻と連携しつつ多くの研究者を育てた。現在に至るまで日本の民俗学界をリードするその流れは「東京教育大学派」と称され、村落の歴史や庶民の生活史を実証的に記述することに特徴を持つ。
- リベラルな歴史学者として知られ、戦後の教育改革で新たに設置された教育科目「社会科」の教科書を最初に執筆したことでも知られる。ただし、戦前は国粋主義色の強い国民精神文化研究所に勤務していた。
家族・親族
- 息子:和歌森民男は民俗学者。桐朋学園芸術短期大学教授・学長を務めた[6]。