品川忠道
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肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
1869年、会計官通商司兼造幣局訳官として明治新政府に出仕した[2]。その後民部省に入り、外務大録、通商大佑となった。1871年、旧宇和島藩主伊達宗城らに従い清国に渡り、日清修好条規締結に当たった[1]。1872年から在清初代領事や上海総領事を務めた。1884年農商務省に移り、通商局長となった[1]。後に実業家となり、日本製鉄[注釈 1]の発起人となった[3]。1891年2月18日死去。享年52歳[1]。長男の卯一は著作者、子の鴨村は俳人、貞七郎は石鹸工場を操業した。墓所は多磨霊園に存在したが、2007年時点で無縁墳墓に指定されていた[要出典]。
脚注
注釈
出典
| 領事 | |
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| 総領事 |
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