鶴原定吉
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福岡藩士鶴原道室の長男として[1]、福岡雁林町(現福岡市中央区)に生まれる。藩校修猷館、1879年(明治12年)7月東京大学予備門文科[2]を経て、1883年(明治16年)7月東京大学文学部(政治科および理財科)を卒業し[3]、同年10月、外務省御用掛となり公信局に勤務する[1]。
外務省では、1885年(明治18年)5月外務書記生としてロンドン領事館に在勤し、1887年(明治20年)12月天津領事、1890年(明治23年)6月上海領事を歴任したが、1892年(明治25年)6月外務省を退官し、同月日本銀行大阪支店筆頭書記に転身する[1]。
日本銀行では、1893年(明治26年)9月支配役・大阪支店長に就任し、1896年(明治29年)4月から営業局長を兼務、1897年(明治30年)2月から更に株式局長も兼務し、1899年(明治32年)2月には理事に就任するが、山本達雄総裁と衝突して、ストライキの主導者として、同月日本銀行を辞職する[1][4]。
1900年(明治33年)立憲政友会創立委員、同年11月から関西鉄道社長を務め[1]、その在任中には周辺諸鉄道との連帯輸送を推進し、後の近畿鉄道合同の動きを醸成する先駆となった。
1901年(明治34年)8月第2代大阪市長に就任し、1905年(明治38年)7月まで務めた[1]。
1905年(明治38年)12月、伊藤博文の推薦で、同年設立された韓国統監府の初代総務長官となり、1907年(明治40年)7月の第三次日韓協約の締結を推進した。1907年(明治40年)8月からは韓国宮内次官を兼務する[1]。
その後、1909年(明治42年)7月東京人造肥料会社社長、蓬莱生命保険相互会社社長、1910年(明治43年)5月中央新聞(立憲政友会機関紙)社長を歴任し、1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に、福岡県福岡市区で立憲政友会から立候補し、安川財閥創始者・安川敬一郎の支援も得て当選し衆議院議員となり、1914年(大正3年)10月26日に辞職した[1][5]。墓所は青山霊園(1ロ-2-1乙)

