喜連川義親 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代前期生誕 慶長4年(1599年)死没 寛永4年7月3日(1627年8月13日)改名 梅千代王丸(幼名)、義親 凡例喜連川義親時代 江戸時代前期生誕 慶長4年(1599年)死没 寛永4年7月3日(1627年8月13日)改名 梅千代王丸(幼名)、義親戒名 天燾院義山英公墓所 茨城県古河市の徳源院官位 河内守幕府 江戸幕府藩 下野喜連川藩世嗣氏族 喜連川家父母 父:喜連川頼氏、母:足利氏姫兄弟 義親、島田守政正室・頼厳妻 正室:榊原康政の養女・松月院継室:養儼院子 尊信テンプレートを表示 喜連川 義親(きつれがわ よしちか)は、江戸時代前期の下野国喜連川藩の世嗣。官位は河内守。 下野国喜連川藩初代藩主・喜連川頼氏の次男[注釈 1]として誕生。母は古河公方足利義氏の娘・氏姫。幼名は梅千代王丸。 正室は松月院(榊原康政の養女・康政室花房氏の姪[注釈 2])。継室は養儼院(黒田直陣の娘。元・徳川家康側室。)。 母である氏姫が喜連川に入ることを拒み、古河城郊外の鴻巣御所に居住し続けていたため、義親も母と共に暮らした。母の死後も喜連川に入ることなく、父に先立ち29歳で病死した。法号は天燾院義山英公。墓所は徳源院。代わって長男・尊信が嫡子となった。 脚注 注釈 [脚注の使い方] ↑ 文禄3年に生まれた庶兄の頼厳がいたが母親の出自から後継者とはされず、出家して後に千葉寺の住持となった[1]。 ↑ 『寛永譜』では康政養女とされているが、義親が8歳の時に康政は死去しているために喜連川家との婚姻を前提に養女を迎えたかは不明で、花房氏単独の養女の可能性がある。当時の喜連川家は徳川氏の重臣で北関東に大きな影響力を有して榊原氏との婚姻を望んだが、当時の当主である榊原忠次は義親よりも若く、正室の養父にはなれなかったためと推測される[2]。 出典 ↑ 小川雄「徳川体制下の喜連川頼氏」黒田基樹 編『足利義氏・古河姫君』〈シリーズ・古河公方の新研究・3〉 戎光祥出版、2025年、P397. ↑ 小川雄「徳川体制下の徳源院殿(古河姫君)」黒田基樹 編『足利義氏・古河姫君』〈シリーズ・古河公方の新研究・3〉 戎光祥出版、2025年、P371-372. 関連項目 松月院 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles