土方浩平
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生い立ち
現在の北海道小樽市色内町に生まれる[2]。1903年4月、翌1904年5月の大火に罹災[2]。時計店を営んでいた生家は門別(現・日高町)に移り[2]、1908年秋には両親の故郷である山形県酒田市に移る[3]。このころ、神社の祭りで初めて人形芝居(活動人形)を観て魅せられる[4]。土方が(尋常小学校)2年生の8月に父が死去して、時計店は廃業となる[5][注釈 1]。その後、寺に預けられたり[7]、1914年夏から1915年春まで親戚の伝で東京上野に洋菓子店の小間使として出される等[8]、家庭は困窮した。帰郷して約半年後の1915年8月、兄とともに上京した[9]。最初の寄寓先で所持金を横領されたため、兄とそれぞれ働きに出ることにして、土方は看板店の住み込みとなる[10]。働く間にインフレーションで生活が苦しくなり、1918年に他の職人を説得してささやかなストライキを実行、要求を店主に呑ませて「主義者の卵」と呼ばれる[11]。その後、夜店でマクシム・ゴーリキーの『二十六人と一人』を購読したことが契機となり、労働者を描いた文学に関心を持つようになる[12]。また、仕事の合間にハーモニカや絵画も学習した[13]。
人形劇・演劇界入り
1923年4月、当初の店主との約束(徴兵検査適齢期まで)通りに住み込み先を退職して独立した職人となり、数年前に上京していた母や妹と同居した[14]。徴兵検査は身長が低くて兵役免除となった[14]。関東大震災後の避難生活を経て仕事に復帰する傍ら、塗装店での弟弟子の関係から千葉県松戸町での演劇研究会(脚本朗読)「六人の会」に参加し、1925年5月に松戸に転居した[15]。転居してまもなく、小学校の学芸会で劇の演出を頼まれ、演劇を実際におこなうことの楽しさを知る[16]。1926年に母と死別する[17]。1927年、島崎藤村の『仏蘭西だより』に記されたパリのリュクサンブール公園での人形劇に興味を引かれる[18]。自ら人形劇を始めることを考え、まず松戸の小さな新聞社に転職した[19]。仕事の傍ら、脚本の執筆や人形の製作もおこなう[19]。
1928年、人形劇脚本集を入手し、掲載されていた土方定一の『どうして馬は風邪を引くか』を実演したいと仲間と人形劇団「テアトル・パンチ」を結成する[20]。1929年6月、『どうして馬は風邪を引くか』で第1回公演をおこなう[21]。その後、メンバー間の意見の齟齬や新たな加入者もあり、1931年に「テアトル・パンチ」を発展的に解消する形で「新興演劇研究所」と「新興人形劇場」を開設する[22]。
1932年、台風により「新興演劇研究所」と「新興人形劇場」の拠点としていた倉庫が壊滅し、土方は活動を続ける前にまず演劇理論を学ぶことを考えて、プロレタリア演劇研究所に入所した[23]。ここで宇野重吉と知り合う[24]。プロレタリア演劇研究所では講義のほかに新築地劇団公演への参加や、映画『河向こうの青春』への出演などを、新聞社の仕事を持ちながら続けた[25]。官憲の左翼演劇に対する弾圧は強まり、1933年には土方も特別高等警察に拘束され、1か月間拷問を含む厳しい取り調べを受けた[26]。釈放後は新聞社と掛け持ちで新築地劇団で音響・効果の仕事をした[27]。機会があれば人形劇も演じていたが[28]、官憲の介入激化で活動が困難となった松戸を去ることを決意し、知人が経営する東京の宣伝事務所で図案・文案制作の仕事に就いた[29]。

東京に戻ってからも新築地劇団への参加は続け、芸術映画社の映画にも出演した[30]。1937年8月に『日刊漫画新聞』に誘われて入社し、9月には創刊予定の『週刊コミック』の編集長に就任したが、社員による広告料の横領が発覚して年末には会社が解散に追い込まれた[31]。やむなく、翌年からは東宝映画にフリーの俳優として出演する[32]。いくつかの撮影に参加したが、フリー俳優の置かれた立場の弱さを知り、自らやめる[33]。その後はネームプレート製造への従事を挟んで教育映画で俳優兼スタッフの仕事をした[34]。劇団の仕事から離れていたことで、1940年8月の新築地劇団と新協劇団の大量検挙は免れたものの、両劇団が強制解散となったことには大きな衝撃を受ける[35]。新宿の朝日ニュース劇場の宣伝の仕事に移ったが[36]、太平洋戦争開戦で戦況ニュース映画の音声が職場に流れてくることに耐えられず、1942年春には退職した[37]。その後、東宝の支援を得て「東宝演劇研究会」という劇団を同年9月に立ち上げる[38]。研究会は、東宝会長の渋沢秀雄らの理解もあって公演を重ねたが[39]、東宝の意向から1943年に有名俳優などを揃えた第二次東宝劇団に発展的に解消し、土方は総務兼演出として引き続き携わった[40]。だが、1944年には大劇場の閉鎖命令が出され、以後は移動劇団として活動をせざるを得なかった[41]。1945年1月、東宝移動文化隊に移籍して演出部兼隊長代理となり、日本移動演劇連盟にも所属した[42]。日本移動演劇連盟の関係で桜隊への協力を依頼されて3月まで参加し、時には休演した俳優の代役も務めた[43]。帰京後の3月末に友人の妹と結婚した[44]。直後の4月13日の空襲に罹災し[45]、5月からは愛知県稲沢市を拠点に東海地方での移動劇団の仕事に就く[46]。7月下旬に移動演劇連盟の指示で帰京し[47]、その状態で終戦を迎えた[48]。
戦後の活動
終戦後も移動演劇連盟の仕事はなくならず、目的を戦意高揚から復興と産業増産に変えて続けられた[49]。1946年2月もしくは3月に日本移動演劇連盟を退職する[50]。この年になると人形劇関係者も活動を再開し、晩夏ごろに日本人形劇協議会の結成に協力を頼まれ、同年12月に創立総会が開かれて常任委員となった[51]。土方自身も人形劇団を持つことを目指し、1947年に有志で人形劇団「おんどり座」を結成した(10月1日を創立記念日とする)[52]。「おんどり座」は札幌市在住の知人との関わりから、北海道教職員組合主催での道内巡回公演を、結成から2年連続で実施した[52][53][54]。土方自身は1949年1月1日付で日本共産党に入党した[55]。同年6月には他の人形劇団員が合流[56]、8月ごろには「おんどり座」に共産党細胞が結成される[57]。劇団運営は細胞の会議を通す形になり、土方個人の意向が通らない場面も出た[57]。共産党の文化工作隊的活動も増加した[57]。こうした状況で1949年末から翌年にかけて、土方は劇団内で批判を受けた上に、一部の団員が脱退して別に劇団を結成した[58]。「おんどり座」は数人での活動を余儀なくされ、土方が共産党員であるという理由で公演がキャンセルされることも起きた[59]。残った団員も1950年後半には全員退団して、土方は一人でも上演できる脚本を書いた[60]。経済的苦境や「共産党員」という理由で不利な扱いをうけたことから1951年に離党する[61]。
離党後の土方は協力者1名と、長野県での巡回活動をおこなったが、1952年春に協力者が生活に耐えられず帰京、その後紹介された女性と活動した[62]。1954年には、岡谷市の映画館を日曜祝日に限って人形劇場として使う許しを得て常設劇団となる[1][63]。しかし、1955年11月に映画館側の方針変更で利用ができなくなり、劇場は閉館に追い込まれる[1][64]。加えて、長野県での活動以降は東京に残って別居生活となっていた妻からの申し出により、同月離婚した(男児が1人いた)[64][注釈 2]。
人形劇でのパートナーとなっていた女性は、離婚後に神経痛で1956年春まで病臥した土方を支えたが[65]、1957年秋に彼女は心身の疲労から実家に戻る[66]。1958年2月、岡谷市内に勤める当時19歳の女性が偶然「おんどり座」に興味を抱き、土方は通ってくる彼女に熱心に人形劇を教えた[67]。同年5月にその女性・令子と土方は結婚した[67]。「おんどり座」は土方と令子の二人で運営され[67]、1964年には拠点を諏訪市に移した[68]。1966年には夫婦で『小川宏ショー』(9月3日放映)に出演したり、『ノンフィクション劇場』(日本テレビ放送網、11月3日放映)に「ふたりだけの人形劇団」として取り上げられた[69]。1967年に設立された日本人形劇人協会では、理事に就任した[70]。
1971年に吉川英治文化賞、1978年に日本ウニマ功労賞を、それぞれ受賞した[1]。
1981年1月11日死去[1]。親交のあった宇野重吉は、死因は肺癌であったと記している[71]。また宇野によると、令子は土方の没後に一人で人形劇を再開した[72]。