日本移動演劇連盟
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移動演劇スタイルの受容
運搬可能な舞台装置、小編成のアンサンブルという移動演劇のスタイルは、もともと予算が少なく、大規模な動員力のない軽演劇、大衆演劇やプロレタリア演劇運動の一部のグループ(トランク劇場、東京プロレタリア演芸団、メザマシ隊)などの中で培われてきた。戦争の進行のなかで、当局の弾圧や劇場の閉鎖などが続き、都市の劇場での公演が不可能になると、興行会社や劇団、演劇人は、地方巡業や慰問活動に活路を見出した。
経緯
戦争遂行を支援する移動演芸・移動演劇団結成の先駆けとして、1938年1月、日中戦争勃発後の中国大陸に派遣された吉本興業による「わらわし隊」があげられる。本格的な移動演芸・移動演劇団は、文部省の演劇・映画・音楽等改善委員会の活動が取り組まれる1940年になってからで、「東宝移動文化隊」、「松竹移動演劇隊」、「吉本移動演劇隊」結成が進んだ。1941年には、松竹・東宝・吉本などの7つの移動演芸・移動演劇団が加盟。1942年から宇野重吉、信欣三、北林谷栄らの「瑞穂劇団」などが加盟[2]し、その後、文学座、文化座、前進座[3]、井上正夫の井上演劇道場なども参加した。1942年3月には法人化された(社団法人)。最後まで劇団の移動演劇隊への改組に抵抗していた苦楽座、俳優座も、それぞれ「桜隊」、「芙蓉隊」と強制的に改称させられ、移動演劇に移っていった。
桜隊の殉難
移動演劇隊の活動内容
文学座の事例
日本移動演劇連盟の委員長となった岸田國士が創立に関わった文学座は、1941年8月8日の川崎市のマツダランプ工場、8月9日の横須賀・海軍病院講堂、8月9日から翌日にかけての川崎市の日本鋼管附属青年学校講堂を手始めに、移動演劇に取り組んでいく[4]。この頃は、チェーホフの翻訳劇なども上演していたが、次第に時局に応じた演目を加えていく。1942年7月の移動演劇の隊長として三津田健を任命する。1943年7月になると、シュプレヒコール「進め一億火の玉だ」といった大政翼賛会肝いりの演目も含まれるようになる[4]。1944年は、傷痍軍人慰問、貯蓄奨励、優良農村感謝激励、決戦食糧配給、特別攻撃隊員出身地慰問、航空機増産奨励といった名目の移動演劇公演が取り組まれた[4]。文学座は、1945年5月から9月まで石川県小松市に疎開し、そこから各地で公演を続けた。
前進座の事例
情報局が設置した「移動芸能動員本部」のスケジュール通り、前進座の移動隊は、二班に分かれて地方を巡回した。一班は八幡製鉄所や大阪朝日会館、もう一班は東京近郊を巡回した。1945年から都市の劇場公演を中止して、東北、東海、北陸、長野県下を巡った[3]。
移動演劇の戦後
文学座は、1945年9月に疎開先の石川県から東京ら戻ったが、11月11日から11月23日まで日本移動演劇連盟指示下の公演が行われている[4]。なお、文部次官から各地方長官宛に発せられた「公民館の設置運営について」(1946年7月5日 発社第122号)という通達には、「公民館の運営」において緊密に連絡し、協力を受けるべき各種文化団体のひとつとして、「財団法人日本移動演劇連盟」の名前が挙げられている[5]ため、敗戦後もしばらく連盟が存在していたことがうかがわれる。東宝移動文化隊隊長代理を務め桜隊にも一時期参加した土方浩平は著書で、公演目的を戦後復興と産業増産に変更した上で、連盟による移動演劇は戦後も続けられたと記している[6]。
前進座は、敗戦後いち早く日本移動演劇連盟から離れ、疎開も中止して、1945年から翌年にかけて三回の帝劇公演を実現した。1946年11月からかつての移動演劇のように、全国の学校講堂、公会堂、工場を巡回する公演を「青年劇場運動」としてスタートさせた[3]。ここで活躍したのが日本移動演劇連盟で舞台装置の研究に取り組んだ伊藤熹朔の機動性に富んだ装置だった。「青年劇場運動」は、短期間に50万人前後の観客を動員する上演活動として成功をおさめ、これによって前進座は、1948年度の「朝日文化賞」を受賞することになる[3]。