地上最強のカラテ
From Wikipedia, the free encyclopedia
『地上最強のカラテ』(ちじょうさいきょうのからて)は、1976年に公開された空手を題材とする日本のドキュメンタリー映画[1][3][4][5]。三協映画製作、松竹・富士映画共同配給[1]。
「極真カラテ映画三部作」の第一作[6]。以降、『地上最強のカラテ2』(1976年)、『最強最後のカラテ』(1980年)の二作が製作された。3本とも製作は三協映画で、一作目、二作目は松竹の配給、三作目は東映が配給している。一作目、二作目を合わせた総集編も劇場公開された[1]。
1979年11月に東京都体育館で行なわれた「第一回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」をメインに、世界各国選手たちの修行ぶりの生の姿を追う[1][3]。極真会館館長・大山倍達の半生にわたる悲願が実現されたとされ[1][3]、世界中にある他流空手試合は"型"のみを重視するが、大山が目指したのは、実戦に即したいわゆる"喧嘩空手"であった[1][3]。それが真の空手道に通じるという、確固たる大山の信念であったといわれる[1][3]。同大会は参加35カ国、選手128名で、もし、日本選手が敗れ、外国選手がチャンピオンになったら、腹を切らねばならぬと(劇中では全員で舌を切るという)、大山は秘かに覚悟を固めていたといわれる[1][3]。
スタッフ
キャスト
製作
企画
大山倍達は東映に自身を千葉真一が演じる「けんか空手シリーズ」(山口和彦監督)製作の許可を出したが[4]、日本映画最強のアクション映画製作チームは[4]、何でもかんでも東映色に塗り潰してしまい、この連中が実は気に入らず[4]。カラテ映画ブームはもう末期であったが[2][4]、自ら極真空手のドキュメント映画の製作に乗り出すことを決めた[4]。またブルース・リーの出現が梶原一騎の負けん気に火を点けており[5]、真っ向から対戦すると両者の合意の元、企画されたとされる[5]。
撮影
冒頭「空手とは何の武器を持たず、素手で相手の攻撃に立ち向かい、身を守る術を言う。武器を持たないというその発想は平和を愛する心へとつながる」と強引な説明がされる[4]。しかし劇中で手裏剣投げや、ヌンチャク、釵を使ってトレーニングをする映像が映る[4]。第一回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の説明に「(空手の中には)中国拳法のカンフー、タイのキックボクシングも含まれる」と説明される。この大会に出場する選手たちのバックボーンや、世界各国での練習映像などを挟みながら試合が進む[1][4]。クラサオやトリニダード・トバゴ、プエルトリコなど、世界35カ国から選手が参加[4]。審査員は、大山倍達、梶原一騎、真樹日佐夫、三木武夫、毛利松平、塩田秀雄の6人。劇中に空手対カンフーは大きな見どころと説明があり、岸信行とカンフーの武道家が闘うが、体重差がかなりあり、岸の膝蹴りが腹に入り、戦意喪失し、岸の優勢勝ちとなる。次の試合も二宮城光対香港のカンフー選手という触れ込みながら、体も締まってなく、カンフーとは思えない攻撃を繰り出し、右わき腹に正拳突きを入れられ、起き上がれず。香港、タイ、マレーシアなど、日本以外のアジアの選手は小さい選手ばかりで、欧米人と戦わせることには無理があり、攻撃を繰り出すことなく、特に後ろ回し蹴りを初めて見た風に顔面に喰らい、倒れ込んで動けなくなる選手が続出する[4]。タイ選手の登場に合わせて、タイ国の説明やムエタイの試合映像が映り、「落ち着いた佇まいを見せる仏教国タイにもムエタイがある。日本ではキックボクシングと呼ばれて人気のあるこの競技。実は空手の発祥とところを同じくしている。中国から沖縄に渡って、空手となり、南に下ってタイでは国技ムエンタイとなったのである」と説明される。演舞(アトラクション)として行われる真剣白刃取りが凄い。NETのテレビカメラが映るため、同局でも放送があったのかもしれない。最期に「世界大会記録」とテロップが出て、負傷選手23名、重傷18名などの表記される。
作品の評価
興行成績
- 松竹が買い取ったが[7]、当初は松竹興行部もヒットするなど夢にも思わず[7][8][9]、「女性ファンは絶対に見ない東映ファンの映画だろう」と高をくくっていたが[7]、東劇、新宿京王、渋谷東急の東劇系(松竹洋画系)3館で12日間の限定公開がされると興収1億6800万円の大ヒット[2][8][9]。各地の劇場主から上映申し込みが相次ぎ、慌てて邦画番線に移され[2][8][10]、1976年7月3日から『撃たれる前に撃て!』との二本立てで、浅草、上野他、大阪、神戸、京都、福岡、札幌、名古屋など、全国の松竹主力館で四週間の拡大ロードショー上映された[2][7][9]。カラテ映画ブームは終わったという見方もあったが[2]、予想を上回る興行成績を挙げ[2][4][7][11]、『地上最強のカラテ2』の製作が決定した[4][11][12]。この年の松竹は演劇部門の好調と『JAWS・ジョーズ』などの洋画ヒット作で増収となったが[10]、邦画興行は不発続きだった[10]。洋画系で稼ぎ、邦画系でもまた稼ぎで、松竹の孝行息子のような存在となり[8]、大ヒットの成功を祝い、1976年6月24日に帝国ホテルで祝賀会が催された[2]。会場にビニールシートが敷かれ、上三段の氷塊や瓦が15枚づつ四組に並べられ、開会と共に選手が入場してアレヨアレヨといううちに全て粉々にするお祝いのアトラクション[2]。城戸四郎松竹会長、大山倍達、梶原一騎の3人が挨拶に立ち、奥山融富士映画代表に表彰状が授与され、大谷隆三松竹社長の乾杯の音頭で賑やかなパーティとなり、世界にカラテを強く再認識させた[2]。海外配収でも3億円は確実ともいわれ[9]、ワーナー映画との間に世界配給の話も進み[9]、これが成立すると180万ドル、邦貨で約5億4000万円になるとも報道された[9]。当時、東映の『新幹線大爆破』や千葉真一、志穂美悦子のカラテ映画、マンガ映画がよく売れていたが[9]、松竹ではまだ輸出作品で100万ドルの外貨を稼いだ映画はなかった[9]。
批評
- 天野譲二は「日本を代表する『立志伝中の人物』『ホンモノの空手家』としてのイメージを日本人にアピールした大山倍達の極真会館が、娯楽やマネ事としてではない、ホンモノの空手を修得したいと思った少年たちの欲求のはけ口を提供できたのは、ドキュメンタリー映画を使ったからこそともいえる」などと評している[4]。