地下式坑

From Wikipedia, the free encyclopedia

地下式坑(ちかしきこう)、または地下式土坑(ちかしきどこう)[1]は、日本列島中世13世紀16世紀)の時期に、主に南関東地方を中心に出現した、1種の地下室に対する考古学上の名称である。地表から竪坑を掘り、その底から真横に掘り広げて地下空間(主室)を構築する遺構だが、どの様な性格の遺構なのか統一した見解が定まっていない[2]地下式壙(ちかしきこう)や地下式横穴壙(ちかしきよこあなこう)などとも呼ばれる[3][4]

研究史

地表面から、2メートルほどの竪向き(垂直方向)の坑(竪坑)を掘って入口とし、その底から横向き(水平方向)の坑(横坑)を掘り広げて地下室(主室)としたものである[1][5]

造営年代は基本的には中世近世に属しており[注釈 1]、分布は東京都埼玉県神奈川県にあたる南関東(旧武蔵国相模国)に特に濃密で[4]、ほかに山梨県[7]千葉県下総地域)・福井県滋賀県九州地方北部などにも分布する[4]

本遺構に関する研究史は、1915年(大正5年)に梅原末治が『考古学雑誌』誌上において、福井県敦賀市で25基の同遺構の発見を報告したことに始まる[8]。この報告の際、梅原はこの遺構を「横穴古墳」と呼び、古代横穴墓の1種と考えた。同時期には九州地方の考古学研究者を中心に梅原と同じく横穴墓とする見解がとられたが、これに対し中山平次郎は、竪穴系墓制と横穴系墓制の中間形態として捉える見解を示した[8]

1934年(昭和4年)4月頃、東京市神田区(現・東京都文京区[注釈 2]東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)跡地において、東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学、現在の東京科学大学 医歯学系の前身にあたる)校舎を建設する工事で発見された地下式坑について、上田三平古墳時代地下式横穴墓説を発表した。これに対して、服部清五郎(服部清道)と篠崎四郎は江戸時代の貯蔵庫・地下式倉庫説をとりラジオ等のメディアを通じて上田説を批判し「地下横穴論」と呼ばれる論争を引き起こした[9]。同時期に大場磐雄は、麹室(こうじむろ)説・隠匿曠(いんとくこう)説を唱えており、地下式坑の用途と性格を巡り諸説が林立した[8]

またその造営年代についても、この時点では年代を特定する遺物等の根拠を欠いており、各説の遺構の推定年代には、古墳時代から江戸時代までと言う広範な年代幅が生じた[8]

その後、1953年(昭和28年)の井の頭公園における中世人骨を包含する地下式坑の発見や、1955年(昭和30年)の金井塚良一による埼玉県東松山市高坂での調査事例を経て、1959年(昭和34年)の東京都府中市高倉遺跡の発掘調査において、地下式坑が平安時代竪穴建物跡を切り込んで構築された状況が検出されたことで、地下式坑が中世期に属する遺構である事が判明した[8]

また、同年に東京都武蔵野市では、内部に紀年銘のある板碑を5点納めた地下式坑が検出され、吉田格(よしだ いたる)により墳墓説がふたたび提唱された[8]

1962年(昭和37年)の千葉県松戸市大谷口城(小金城)、および1967年(昭和42年)の東京都青梅市今井城発掘調査では、城内から地下式坑が検出されたことで、同遺構と城郭との関係性も認識されるようになった[8]

1970年代に入ると、これまでの調査例の蓄積データを基に形態分類が試みられるようになり、塚田明治は、1975年(昭和50年)に神奈川県下の事例を基に県内の地下式坑をA〜Gの7類に形態分類した[8]

1977年(昭和52年)には中田英が4類8種の分類案を提唱し、墳墓説に疑問を呈し地下倉庫説を主張した。中田の論文は、70年代当時における地下式坑調査の蓄積データを集大成した研究として評価されている[8]。その後、半田竪三が1979年(昭和54年)に4類29種の分類案を提示し、入口を垂直に掘り込む竪坑型の地下式坑に加え、斜めに掘り込む坑(斜坑)の入口を持つ形態や、斜坑に階段状の足掛けを設けるものを分類に加えた。用途・性格としては中田説とは異なり墳墓説を主張した[8]

その後、1995年(平成7年)には小山裕之が、半田分類でも少し取り上げられていた斜坑の入口部に階段状の足かけを設ける形態に注目し「階段付き地下式坑」と呼んで考察を加えている[8]

用途の諸説

機能については地下墳墓説・地下倉庫説・隠匿壙説などがあるが、現在に至るまで確定的な結論は得られていない[2]

九州地方南部(宮崎県鹿児島県)に特有の古墳時代の墓である地下式横穴墓とは別種とされているが、墓として用いられていた事例に基づき、本項の地下式坑と地下式横穴墓を同一項目で解説する学術書籍も存在する[9][4]。人骨片やカワラケ宋銭等(葬送に関わる副葬品)が出土し[6]として使われた事を示唆するものが一定数存在する一方で、大半の検出事例では地下室(主室)内に遺物を伴わないものが多く、用途・機能(さらには構築年代)を絞り込めない要因となっている[2]

ただし前述のように城郭遺跡での検出例や、地域の有力者の居館(城館)遺跡での検出例が多く、これらとの関連性が検討されている[6][10]

現在は、二者択一的に用途を絞り込むのではなく、各検出事例ごとに考えるべきではないかとする意見がある[2]。「地下式坑」という名称も、「墓」や「倉庫」といった、用途を限定する呼称を避ける意味もあって用いられているものである[2][注釈 3]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI