坪田氏
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江戸時代中期に京都で詩人として活動した坪田源蔵(文太夫)貞詳(俳号は負山・負山子)の『負山子文集』内の「先考源貞勝君墓誌」によると、坪田氏自体は近江国にルーツを持つ源氏であり、父・坪田小左衛門(伝左衛門)貞勝は丹後国宮津出身で大和国に住んだ後に上洛して後水尾法皇や東山天皇に仕え、元禄元年(1688年)に61歳で没した[1]。貞勝について、『御内儀侍中家譜』には、年不明であるものの東宮御所へ召し出され御膳番となり4石2人扶持の給与を賜っていた。貞享4年(1687年)3月21日には東山天皇の受禅に伴って禁中に遣わされ引き続き御膳番を勤め8石の給与を賜るようになり、元禄元年(1688年)11月5日に没した[2]。
貞勝の子・貞詳は『御内儀侍中家譜』によると元禄元年(1688年)12月19日に使番を相続し、5石2人扶持となった。宝永2年(1705年)8月5日には御膳番となり3石加増され、同6年(1709年)6月4日には東山上皇の院御所に出仕して8石2人扶持となった。その後も上皇や天皇に仕え、宝暦4年(1754年)2月2日に死去した。『負山子文集』によると宝暦2年(1752年)時点で貞詳は81歳であり、逆算すると寛文10年(1670年)生まれとなる[2]。また、『角川日本姓氏歴史人物大辞典』によると黒門通中立売下ル町に住んでいたという[3]。
貞詳の弟・坪田貞陳は俳号を嵐笠といい、若くして仙洞御所に出仕した諸大夫であり、修学院離宮に詰めていた。詩人としての師匠は百葉泉富鈴で、他にも東歌などとの交流を確認できる。元禄12年(1699年)2月には江戸に下向している。貞陳は延享4年(1747年)夏に71歳で没しており、逆算すると延宝3年(1675年)生まれとなる[2][4]。
貞詳の子は坪田宮内貞良で、享保10年(1725年)5月5日に使番となり2人扶持となり、寛保2年(1742年)9月28日に奏者番となり、宝暦8年(1758年)8月15日に没した[2]。
貞良の弟は下河辺拾水で名は行耿といい、権之助の称した。下河辺才治の養子となり双ヶ丘付近に居住し、狩野派の絵を学んで浮世絵師となった。寛政9年(1797年)12月30日に没した[5]。
貞良の子・坪田主鈴脩貞以降は『地下家伝』に系譜が見える。同書によると、享保12年(1727年)10月28日に生まれ明和4年(1767年)11月14日に滝口武士となった。同月15日には従六位下・左兵衛少志に叙任された。その後安永の御所騒動に関与したために安永3年(1774年)8月27日には官位が停止され、『好古集説』によると京都から追放され洛中洛外への立ち入りが禁じられたという[6][7]。
脩貞の子・勝清は、明和8年(1771年)4月28日に生まれる。安永2年(1773年)9月1日に滝口武士となり、安永7年(1778年)1月25日には従六位下に叙せられ、同日付で左衛門大志に任ぜられた。天明6年(1786年)2月3日に従六位上に叙され、寛政5年(1793年)7月4日には右衛門大尉に転じる。さらに寛政6年(1794年)12月21日には正六位下に昇叙された。文化6年(1809年)3月19日に死去した。享年は52才[7]。勝清の弟には石川紹喜がいる[8]。
勝清の子・貞健は、寛政11年(1799年)10月18日に生まれ、文化3年(1806年)9月25日に従六位下・左衛門大志に叙任された。同12年(1815年)某月27日には従六位上に、文政8年(1825年)には正六位下・左衛門大尉に叙任された[7]。
貞健の子・貞階は天保8年(1837年)に生まれ、嘉永5年(1852年)5月28日には従六位下・右衛門権少尉に叙任された[7]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 大礒義雄「『梅鏡』の負山子と越人の享年」学術文献普及会 編集『国文学年次別論文集近世 昭和55(1980)年 1』( 朋文出版、1984年)
- 1 2 3 4 『御内儀侍中家譜』 坪田
- ↑ 竹内理三 [ほか]編纂『角川日本姓氏歴史人物大辞典 26』(角川書店、1997年)
- ↑ 大礒義雄「『梅鏡』の負山子と越人の享年」学術文献普及会 編集『国文学年次別論文集近世 昭和55(1980)年 1』(朋文出版、1984年)
- ↑ 大日本人名辞書刊行会『大日本人名辞書 上巻 新版』( 大日本人名辞書刊行会、1926年)
- ↑ 佐伯利麿 編『好古集説』坪田左兵衛(好古社、1895年)
- 1 2 3 4 正宗敦夫 編『日本古典全集 第6期〔第7〕』地下家伝 坪田(日本古典全集刊行会、1938年)
- ↑ 『御内儀侍中家譜 』石川