堀川城

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城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 1560年永禄3年)以降
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堀川城
静岡県
城跡推定地とその周辺
城跡推定地とその周辺
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 1560年永禄3年)以降
主な改修者 不明
廃城年 1569年(永禄12年)
遺構 なし(埋没)
指定文化財 なし
埋蔵文化財
包蔵地番号
No.82「堀川城跡」[1]
再建造物 なし
位置 北緯34度48分11.3秒 東経137度38分46.2秒 / 北緯34.803139度 東経137.646167度 / 34.803139; 137.646167座標: 北緯34度48分11.3秒 東経137度38分46.2秒 / 北緯34.803139度 東経137.646167度 / 34.803139; 137.646167
堀川城の位置(静岡県内)
堀川城
堀川城
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堀川城(ほりかわじょう)は、静岡県浜松市浜名区細江町気賀(遠江国引佐郡)にあった日本の城奥浜名湖(細江湖)北岸に位置し、都田川河口の南側、満潮時にはが塞がる干潟の中にあったとされる。600メートルほどに当時の主要街道である本坂通姫街道)が通る。城跡は推定地とされ、都田川の流れも変わり河口の北側、田園のなかに首塚のみ残る。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにて今川義元が戦死した後、土地の人々がを築き、地名より堀川城と名付けた。ほど近い刑部にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた、と伝えられている[注釈 1]

築城期については、都田川南岸の油田地区にある屯倉水神社の立看板[注釈 2]に、下記の記述がなされている。当時は今川氏の勢力下であった。

永禄10年(1567年)社地を俄に城郭となし堀川城を築く。このとき屯倉神社を油田東岩崎水神社に移す[2]。」

永禄11年(1568年)に、今川氏真から瀬戸方久に出した徳政令を免じる安堵状の中で、代わりに「新城」の備蓄を賄うように条件が付いており、この新城が刑部城・堀川城では、と見られている[3]

同年、徳川家康本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込み、刑部城を落城させた。今川方で近隣の堀江城大沢左衛門は家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪の新田友作、竹田高正、尾藤主膳山村修理らは、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。

永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された[4]。竹田高正は城内で切腹、尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は和睦を主張したので家臣と共に退去。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた[4][5]。新田はその後、葭本の金地院に戻り、剃髪して法休喜斎(瀬戸方休とは別人)と名乗り、戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。

城兵や新田友作が斬首された都田川の堤には、「獄門畷(なわて)」の名が残っており、三ケ日一里塚近くの一里山の本坂通沿いには、自刃した山村修理の墓が残っている[6]

この戦いに参加した大久保忠教が書いた『三河物語』には、男女ともなで切りにぞしたりけるとの記述が残っている[注釈 1]

この堀川城の戦いでは榊原康政が先陣を務めており、「無」の旗指物を掲げ真っ先に攻め入ったが、遺言を残すほどの深手を負った、という記録が残っている。[7]

脚注

参考文献

関連項目

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