堀江芳極
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略歴
享保5年(1720年)、父の成芳が死去。しかし、租税の滞納があるため家を継ぐことは叶わず、清算が終わった翌6年(1721年)9月4日に家督を継ぐ。同日勘定に就任する[1]。
同9年(1724年)8月9日、代官に同行して各地の検見を行う。後に大和、播磨、但馬などに赴く[1][3]。
同17年(1732年)8月25日、勘定組頭に昇進する。遠江の大井川や関東の河川にある流作場を検地し、買米のために諸国に赴いた功績により、時服や黄金を賜わる[1]。
延享2年(1745年)閏12月13日、勘定吟味役に昇進し、150俵の加増を受ける。同16日、布衣の着用を許される[1]。
寛延元年(1748年)7月2日、東海道や甲斐国、美濃国の河川普請の功により、黄金10枚を賜わる[1]。
同年10月23日、小普請となる。出仕をはばかるが、翌2年(1749年)正月16日に許される[注釈 2][1][4]。
宝暦9年9月17日死去。享年59。法名は浄圓[1]。
農政官僚としての活動
享保の改革に取り組んだ徳川吉宗は、元文2年(1737年)に松平乗邑を勝手掛老中に任命した。乗邑は年貢増徴を推し進め[5]、勘定奉行の神尾若狭守春央はその政策に従って収税を厳しくし、
と発言したといわれる。堀江は神尾とともに増税策をすすめ、諸国を巡見した。そのため、中国地方では
東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んで来て 野をも山をも 堀江荒しろ(荒四郎) - 『甲子夜話』
あづまより神尾わかさのほりきて畠(はた)をも田をも堀江あら四郎 - 『窓のすさみ』
という落首が作られた(かんの若狭⇒神尾若狭守春央、堀江荒しろ⇒堀江荒四郎芳極)[注釈 4][6]。
松平乗邑の増徴政策は各地で反発を生み、神尾と堀江が行った流作場検地は、元文3年(1738年)8月に関宿藩(現・千葉県野田市関宿町)20町村の町村役人による反対運動に遭っている[注釈 5][7]。