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堀江芳極

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堀江 芳極(ほりえ ただとう、? - 宝暦9年9月17日1759年11月6日〉)は、江戸幕府旗本。通称は、荒四郎。母は水戸家の侍女で某氏の養女。妻は田村孫大夫幸有の養女[1]

寛政重修諸家譜』では堀江の実父は水戸家の家臣の子となっているが、松浦静山の『甲子夜話』では、

此荒四郎は農民より出て御徒士に入、遂に御旗本に列せしと云

と書かれている[注釈 1][2]

略歴

享保5年(1720年)、父の成芳が死去。しかし、租税の滞納があるため家を継ぐことは叶わず、清算が終わった翌6年(1721年)9月4日に家督を継ぐ。同日勘定に就任する[1]

同9年(1724年)8月9日、代官に同行して各地の検見を行う。後に大和播磨但馬などに赴く[1][3]

同17年(1732年)8月25日、勘定組頭に昇進する。遠江大井川や関東の河川にある流作場検地し、買米のために諸国に赴いた功績により、時服や黄金を賜わる[1]

延享2年(1745年)閏12月13日、勘定吟味役に昇進し、150俵の加増を受ける。同16日、布衣の着用を許される[1]

寛延元年(1748年)7月2日、東海道甲斐国美濃国の河川普請の功により、黄金10枚を賜わる[1]

同年10月23日、小普請となる。出仕をはばかるが、翌2年(1749年)正月16日に許される[注釈 2][1][4]

宝暦9年9月17日死去。享年59。法名は浄圓[1]

農政官僚としての活動

享保の改革に取り組んだ徳川吉宗は、元文2年(1737年)に松平乗邑勝手掛老中に任命した。乗邑は年貢増徴を推し進め[5]勘定奉行神尾若狭守春央はその政策に従って収税を厳しくし、

胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり[注釈 3]

と発言したといわれる。堀江は神尾とともに増税策をすすめ、諸国を巡見した。そのため、中国地方では

東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んで来て 野をも山をも 堀江荒しろ(荒四郎) - 『甲子夜話』
あづまより神尾わかさのほりきて畠(はた)をも田をも堀江あら四郎 - 『窓のすさみ』

という落首が作られた(かんの若狭⇒神尾若狭守春央、堀江荒しろ⇒堀江荒四郎芳極)[注釈 4][6]

松平乗邑の増徴政策は各地で反発を生み、神尾と堀江が行った流作場検地は、元文3年(1738年)8月に関宿藩(現・千葉県野田市関宿町)20町村の町村役人による反対運動に遭っている[注釈 5][7]

脚注

史料

参考文献

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