場立ち

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場立ち(ばたち)は、証券取引所立会場において、手サインを用いて売買注文を伝達した証券会社の取引担当者である[1]1730年享保15年)に大坂堂島米会所で誕生した「手振り」を起源とし[要出典]1878年明治11年)の東京株式取引所設立以降は約120年にわたり証券市場の発展に貢献した[2]。最盛期には東京証券取引所の立会場に約2,000人の場立ちがひしめき合い、怒号に近い売り買いの声と無数の手サインが飛び交う光景が繰り広げられていた[3]

コンピュータによる売買システムの導入に伴い、1999年平成11年)4月30日に東京証券取引所の株券売買立会場が閉場され、約120年にわたる場立ちの歴史に幕が下ろされた[4][5]

場立ちの手サインの起源は、江戸時代大坂にさかのぼる[要出典]承応寛文年間(1652年1673年)、大坂には米穀取引を行う市場が設けられていた[4]。この市場は1697年元禄10年)に堂島へ移り、1730年(享保15年)には徳川幕府から公認を受けて「堂島米会所」が成立した[4]。ここでは米切手を売買する現物市場(正米商い)と、帳簿上で米の代表銘柄を売買する先物市場(帳合米商い)が営まれ、取引の伝達には「手振り」と呼ばれるサインが使われた[4]。手のひらを相手に向ければ「売り」、手のひらを自分に向ければ「買い」を意味するこの仕組みが、後の証券取引所における場立ちのハンドサインの原型となった[2]

歴史

東京株式取引所の設立

1878年(明治11年)6月1日、日本初の証券取引所である「東京株式取引所」が誕生し、売買の立会が開始された[2][6]。堂島米会所で培われた手振りの文化は、ここに株式取引の場へと引き継がれた[2]

立会場には証券各社のブースと、注文を付き合わせるポストが設置されていた[1]。ブースから手サインで指示を受けた場立ちたちはポストに集まり、自分の注文を先に執行させようと先を競ってもみ合った[1]。東京証券取引所ではポストでの注文の付け合わせを行う仲介者を「才取会員」と呼び、大阪証券取引所では「仲立会員」(仲立証券)がこの役割を担った[7]

バブル期の喧噪

1980年代後半のバブル景気は、場立ちの世界に空前の活況をもたらした[3]1988年には兜町58社の証券会社が本社・本店を構え[3]、立会場には約2,000人の場立ちが集結した[3]。紺のブレザーを着込んだ場立ちたちが怒声に近い売り買いの声を上げ、手振りで注文量を示す光景が繰り広げられていた[3]

2,000人がひしめく立会場で自分の注文を先に執行させるには、声量と体力が求められた[1]。異なる証券会社の場立ち同士であっても連帯感が生まれ、ミスを庇い合うなど親密な関係が築かれていたという[3]

NTT株上場

1987年2月9日、民営化されたNTTの株式が東京証券取引所に上場された[8]。1次売出価格は119万7,000円であったが、買い注文が殺到して初日には値がつかず、翌2月10日にようやく初値160万円で売買が成立した[8]。公開からわずか2か月で株価は史上最高値の318万円にまで高騰し、時価総額世界一を記録した[9]

大和証券の沖宗和宏は、NTT上場当日の立会場にいた一人である[8]。顧客から電話で受けた注文を手サインで才取会員に伝達するその作業は、バブル期の高出来高のもとでは秒を争うものであった[8]

コンピュータ化への移行

東京証券取引所におけるコンピュータ化は、一夜にして成し遂げられたのではなく、段階的な移行プロセスであった[7]

きっかけは1977年、取引所建物の改築構想において売買立会のためのスペースが確保できないという物理的制約が浮上したことであった[7]。これを契機に、市場第二部の売買をシステム化する検討が始まった[7]

1982年、市場第二部の売買で日立製作所製のコンピュータ売買システムが稼働した[7]。発注は「場電店」と呼ばれる証券会社の特定支店から専用端末を介して行われ、注文の付け合わせは才取会員が東証建屋内の売買室で端末を操作して行った[7]。この仕組みは徐々に拡大され、1985年には市場第二部の全銘柄がシステム売買に移行した[7]

その後も、比較的売買の少ない市場第一部銘柄から順次システムに移され、立会場での売買は次第に「立会場銘柄」と呼ばれる大型銘柄に限定されていった[7]。1990年には「立会場事務合理化システム」が稼働し、場立ちの業務はさらに縮小した[要出典]

立会場の閉場

1999年(平成11年)4月30日、東京証券取引所の株券売買立会場は閉場された[4]1878年の開設以来、約120年にわたる立会場の歴史に幕が下ろされた[4][2]。閉場の理由について東証は、会員証券会社の「売買執行の迅速化やコスト削減」、および東京マーケットの「より一層の効率化」を図るためと説明した[5]

すべての売買取引はコンピュータの売買プログラムで処理されることとなった[5]2000年7月には富士通が開発した統合株式売買システムが稼働した[7]2010年1月には新売買システム「arrowhead」が導入され、注文から約定までの所要時間は約0.001秒にまで短縮された[7]。かつて場立ちが秒を争って競い合った注文の執行は、ミリ秒単位で処理される時代となった[7]

なお、東証以外の取引所でも立会場の閉鎖は進められた[要出典]大阪証券取引所では1982年12月28日に「撃柝売買」(げきたくばいばい)が終了した[要出典]名古屋証券取引所2000年9月4日に立会場を閉鎖し、全取引をコンピュータシステムに移行した[10]。日本国内で最後まで場立ちによる取引が行われたのは、2007年8月31日の中部大阪商品取引所であった[11]

手サイン

仕組み

場立ちの手サインは、「どの銘柄を、何円で何株買う(または売る)か」を身振りだけで伝達する体系であった[2]。当時約2,000銘柄が上場されており、場立ちはこれらすべてのサインを暗記する必要があった[6]。立会場は騒音がひどく、言葉でのやりとりがほとんど聞き取れなかったため、このサイン体系が不可欠であった[2]

手サインで伝達する情報は以下の4要素で構成され、「銘柄→値段→数量→売り買い」の順で表現された[11]

売りと買い

最も基本的な区別は、手のひらの向きで表された[2][12]

  • 手のひらを相手に向ける = 売り
  • 手の甲を相手に向ける(手のひらを自分に向ける) = 買い

この「売りは手のひら、買いは手の甲」というルールは、堂島米会所の時代から世界の取引所に至るまで共通する原則であった[2]

数字の表現

数字は片手の指で表したが、6以降は独特の表現が用いられた[2]

数字 表現
1〜5 指を立てる(標準的)
6 親指のみを立てる
9 人差し指に親指を下からあてて「9」の形を作る
10 OKサイン

株数は手の振幅の大きさで桁数を区別した[2]

値段は左手で10円の位、右手で1円の位を示した[11]

銘柄のサイン

銘柄の表現は、企業名や事業内容から連想される動作で行われた[2]。大和総研の佐川あぐりはこれを「オヤジギャグの世界」と評している[12]。以下は各出典に記載されている具体的なサインの例である。

銘柄 サインの動作 出典
トヨタ自動車 片手で顔の前にカタカナの「ト」を書き、両手でハンドルを握る仕草 [2][6]
NTT 片手を耳にあてて電話で話す仕草 [2]
キヤノン カメラのシャッターを押す仕草 [2]
三越 中指・薬指・小指を立てて「3」を示し、手を頭の前から後ろに動かす(「3が越える」) [6]
三井物産 自分の頭をたたくまね(「物」の「ぶつ」) [13]
三菱商事 障子を開ける手つき(「障子」=「しょうじ」=「商事」) [13]
日立製作所 指で「四」を示し上下させる(「四が立つ」→「しだち」→「ひたち」) [13]
「海上」と付く会社 右手を水平に波打たせる [13]
日本郵船 オールを漕ぐまね [14]
日本航空 両手を広げてパタパタする [14]
伊藤忠商事 投げキッス(「チュー」) [14]

東京新聞は、こうしたサインの様子を「密集の中で送り合う謎めいたしぐさは職人技を思わせたものである」と記している[13]

取引以外での使用

大和総研の佐川あぐりは2012年のコラムで、場立ちたちが手サインを使って「お昼ご飯の約束、飲み会の段取り、デートの予定」まで伝え合っていたと記している[12]

兜町と場立ちの文化

証券の街・兜町

東京都中央区日本橋兜町は、1878年の東京株式取引所開設以来、大小100余の証券会社が集まる日本有数の金融街であった[15]。兜町は「シマ」の通称で呼ばれ、人々にとって株式投資の代名詞的な存在であった[16]

鰻屋「松よし」

兜町の場立ち文化を約70年にわたり見つめてきた存在に、鰻屋「松よし」がある[16]1949年昭和24年)、戦後の東証再開とともに創業した同店には、証券マンたちが「株価がうなぎ上りになるように」との願掛けで通い詰めた[17]。二代目店主の江本良雄は、証券マンの来店動向に合わせて鰻の仕込みを調整していたという[16]

兜町の証券マンは食事も手早く、食べ終わるとすぐに立会場へ戻っていった[16]。前場が好調な日には兜町の鰻屋に証券マンが駆け込み、「後場も鰻上りになるように」と願をかける風習があった[17]

松よしは2018年12月28日に閉店した[16]。後継者不在が主な理由であった[16]。江本は閉店にあたり、1999年の立会場廃止以降に証券マンの姿が減り、街の賑わいが失われていったことを振り返っている[16]

兜町の変貌

1999年の立会場閉場後、兜町は大きく変貌した[18]。証券会社の数は58社から15社に減少し、証券業界の従業員数も大きく縮小した[18]。場立ち約2,000人が消えたことで周辺の飲食店の客も急減し、オフィスビルの跡にはコンパクトマンションが建つようになった[18]

2014年頃から平和不動産主導の再開発プロジェクト「日本橋兜町・茅場町再活性化プロジェクト」が始動し[19]2020年以降はホテル・カフェ・パティスリーなどの複合施設が相次いで開業した[19]。かつて証券マンの怒号が響いた街は、ハイセンスな飲食店が集まるエリアへと変貌を遂げている[19]

海外の取引所との比較

ニューヨーク証券取引所

東京証券取引所が1999年に場立ちを廃止したのに対し、ニューヨーク証券取引所(NYSE)は現在もフロアトレーダーによる取引を維持している[3]。アメリカの登録取引所13か所の中で、人間のフロアトレーダーを擁するのはNYSEのみであり、他はすべて完全電子化されている[3]

NYSEでは電子取引が全体の約9割を占め、フロアでの取引は残りの約1割にとどまる[3]。2018年に就任したCEOのステイシー・カニンガムは自身もフロアトレーダー出身であり、場立ちを残した理由について「投資家の強い要望」があったと説明している[3]。NYSEは「人間の判断力と説明責任」がもたらす秩序ある取引開始・終了、低いボラティリティ、より深い流動性は何ものにも代えがたいとの立場を取っている[20]

2020年3月、新型コロナウイルス感染症の影響でNYSEは一時的に全面電子取引に移行したが、その後フロアトレーダーを再開した[3]。NYSEはこれまでにも戦争・テロ・ハリケーンで閉鎖を余儀なくされたが、再開時には常に場立ちが立会場に戻ってきた歴史がある[3]

各国取引所の電子化

世界の主要取引所の電子化は、1980年代から2000年代にかけて進行した[要出典]

取引所 電子化の年
ロンドン証券取引所 1986年
ボンベイ証券取引所 1995年
トロント証券取引所 1997年
韓国取引所 1997年
東京証券取引所 1999年
シカゴ商品取引所 2016年(完全廃止)

シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)は2021年5月、ユーロドル・オプションのピットを除くすべてのオープンアウトクライ(立会取引)ピットの恒久的閉鎖を発表し、立会取引の伝統に終止符を打った[21]。ヨーロッパではロンドン金属取引所(LME)が「リング・トレーディング」と呼ばれる短時間の対面取引を価格発見の手段として現在も維持している[要出典]

旧立会場の現在

東証の旧株券売買立会場は、2000年5月9日に「東証Arrows(アローズ)」としてリニューアルオープンした[4]。施設の中心には直径17メートルのガラスシリンダーで覆われた「マーケットセンター」が設けられ、内部ではマーケット監理業務が行われている[22]。シリンダーの上部には1周約50メートルの「チッカー」(電光掲示板)が配され、約定株価がリアルタイムで表示される[22]

施設内には新規上場セレモニーで使用されるがあり、日本の証券市場の歩みと東証の歴史を展示・解説する回廊も整備されている[22]。見学は無料で入場可能である[22]

関連作品

関連項目

脚注

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