墨弁
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著者については墨翟・歴代鉅子・墨家三派・別墨など諸説ある[1]。
基本的には以下のような形式で書かれている。
- 経上篇と経下篇 - 簡素な短文(主に術語の定義文)の箇条書き。
- 経説上篇と経説下篇 - 経上篇と経下篇で箇条書きした短文に対する解説文(注釈・言い換えのような文)の箇条書き。
- 大取篇と小取篇 - 学説の枚挙。
「経・経説」と似た形式は、近い時代の他の文献にも見られる[3]。例: 『韓非子』十過、および内儲説上などの「儲説」諸篇、『管子』乗馬・宙合・心術上、および牧民解などの「解」諸篇、思孟学派の『五行』、『黄帝四経』の『経法』君正・論・亡論など[3]。「経・経説」の成立順序(「経」が先に書かれたのか、それとも同時に書かれたのか)については諸説ある[4]。
受容
→「墨子 § 受容」、および「名家_(諸子百家) § 研究史」も参照
西晋の魯勝は、墨弁の注釈書を著したが、叙文だけ残して散佚してしまった[5]。「墨弁」という呼称はこの叙文に由来する。
清代には、王念孫・畢沅ら考証学者が『墨子』全般を研究・再評価した。特に乾隆55年(1790年)には、張恵言が『墨子経説解』を著している[1]。清末の孫詒譲・鄒伯奇・陳澧は、『幾何原本』など西学の知識を用いて解釈した[6]。
民初の1920年代前後には、胡適・梁啓超ら多くの学者が、西洋の論理学等と比較して名家とともに再評価した[1][7]。ただし、この時期の研究は「墨子インド人説」に象徴されるように、実証性よりも斬新さを競うような研究が多かった[8]。
関連項目
日本語訳
→「墨子 § 参考文献」を参照