壬生刑部左衛門
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『米沢藩古代士籍』によると壬生刑部丞(壬生刑部之亟)は「天文年中前管領上杉憲政公越後御入之時御供」とされ、天文21年(1552年)に上杉憲政に従って下野国から越後国に移住したことがわかる(ただし『上杉家文書』では弘治3年(1557年)、『上杉家御年譜』には永禄元年(1558年)に越後入りしたとされている)。加えて「後下野壬生江帰城直江ニ奉公」とされている。また同書によると壬生刑部は「謙信様衆」の1人とされ「関東下野壬生」とある[1]。
16世紀中期には、親後北条氏派の5代目当主・壬生義雄と、親宇都宮・上杉氏の叔父・壬生周長が対立し内紛となったが、壬生刑部左衛門の上杉憲政への帰順はこの一連の流れと関係している可能性がある。後に刑部左衛門とともに名前が見える鹿沼右衛門は、周長に仕えて天正4年(1576年)に当主・義雄を暗殺したものの、同年に義雄の家臣・板橋親棟に殺害されたとされている。
寛文元年(1661年)に米沢藩士・丸田友輔が記した『北越耆談』では、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにて、8月18日に新発田重家や直江兼続、同郷の鹿沼右衛門らとともに「景勝先手」として名前が挙げられている[2]。
米沢図書館所蔵の文禄3年(1594年)の定納員数目録によると、鹿沼右衛門・宇津宮治部少・小田常陸助(小田氏治か)とともに常州出身であるとされるが、壬生・鹿沼・宇津宮(宇都宮)は下野国の地名であり誤りであると考えられる[3]。
『南紀徳川史』では「前方より奉公人なり」とされており、上杉景勝の古くからの家臣とされている[4]。
慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津へ転封となった際に、先方となった36騎の中に名前が見える[5]。
慶長5年(1600年)に上杉景勝が神指原城を建設していた際には、直江兼続の使者として上泉信綱とともに会津に派遣されている[6]。
『最上合戦記』によると、直江山城守兼続の家臣に壬生刑部左衛門の名前が見え、松ヶ崎城や長谷堂での戦いで活動し、最上義光軍と戦闘している[7]。
天和2年(1682年)に徳川頼宣の家臣が記した『大君言行録』によると、景勝の家臣として山上道及・上泉信綱・山内氏清(原文では横田大学、山内氏勝の弟)・前田利益(原文では前田慶次)・才野伊豆守・岡野左内とともに名前が挙げられている[9]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 高崎市市史編さん委員会 編『新編高崎市史 資料編 4 (中世 2)』(高崎市、1994年)
- ↑ 『戦国史料叢書 第2期 第14』(人物往来社、1967年)
- ↑ 『与板町史 資料編.上巻』(与板町、1993年)
- ↑ 堀内信『南紀徳川史 第1冊』(名誉出版、1970年)
- ↑ 『岩代町史 第2巻 (資料編 1 原始・古代・中世・近世)』(岩代町、1985年)
- ↑ 小山田浄『平姓小山田氏系図写・解説 : 小山田多門書伝』(雄文社出版企画室、1990年)
- ↑ 中村晃『最上義光物語 (教育社新書. 原本現代訳 ; 38)』(教育社、1989年)
- ↑ 村松町教育委員会編纂委員会『村松町史 資料編 第1巻 (考古・古代・中世)』(村松町教育委員会事務局、1980年)
- ↑ 佐伯有義, 植木直一郎, 井野辺茂雄 共編『武士道全書 第九卷』(時代社、1942年)