夏恭
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清末の活動
1897年(光緒23年)に挙人となる。清末において、帰綏で書院の山長[注 1]や総教(教官)となり、道公署で幕賓を兼ねた。その後は吏部で知県の資格を取り、陝西省で藩署文案や統計処総合総務処行走[注 2]、県政調査局財政統計「掌股」(担当)などを兼務した。また、龍王辿厘局[注 3]委員にも任ぜられた。中華民国では出仕せず、故郷に引退している[2]。
親日蒙古政権での活動
1937年(民国26年)9月、日本軍が山西省大同県を占領する。在野にあった夏恭は日本軍により招聘され、同月30日に組織された晋北治安維持会で委員長となった。10月15日、維持会を改組した晋北自治政府において、夏が最高委員に任命された[1][3][注 4]。11月22日、張家口において、蒙古聯盟(主席:デムチュクドンロブ〈徳王〉)[注 5]、察南(最高委員兼会議代表:于品卿)、晋北(最高委員兼会議代表:夏恭)の3自治政府による代表者会議が開催された[4]。その結果、蒙彊聯合委員会が成立し、夏は総務委員兼交通専門委員会委員となる[5]。
1939年9月1日、上記3自治政府の合流により蒙古聯合自治政府(主席:徳王)が成立し、夏恭は于品卿と共に副主席として任命された[1][3][6]。蒙古聯合自治政府での夏は、馬永魁(財政部長、後に経済部長)や田汝弼(晋北政庁長官)と共に晋北(自治政府)系派閥(「晋北派」)の一員と目されるようになる。
しかし翌1940年1月10日、夏恭は蒙古聯合自治政府副主席を僅か4か月余りで「依願退職」し、「前任官待遇」で大同炭鉱株式会社理事長に移った[7]。徳王の回顧によれば、理由は不明ながら、政府最高顧問・金井章次が徳王らに突然提案、実行した人事であったという。なお、副主席1名は約1年5か月にわたって空席となり、1941年6月1日、ようやく蒙古軍総司令・李守信が副主席を兼任した[8][9][注 6]。
蒙古聯合自治政府から離れた後の夏恭は、在野での社会的活動に転じた。大同炭鉱株式会社理事長以外にも、義務職晋北協進会会長、晋北仏教学院院長、蒙疆仏教学総会会長に就任するなどしている[2]。
没年について
徐友春主編『民国人物大事典 増訂版』によれば、夏恭は1941年死去としている[3]。これは李守信が自身の回顧録(「李守信自述」)において、夏の死亡により自身が(軍総司令と)副主席を兼任した旨を記載しているためと考えられる[10]。
しかし、1943年2月12日に勲三等旭日章を受章した際の雑誌『蒙古』記事では、夏恭について「現大同炭鉱理事長」と記載されている[11]。また、『朝日年鑑』昭和19年(1944年)版の「大東亜人名録」(636頁)でも、大同炭鉱株式会社理事長として存命人物扱いでの記載がある。
以上から「李守信自述」の記載は誤りと見られ[注 7]、夏恭は1943年2月時点において存命の可能性が高い。その後においては、夏の生死・行方は不詳である。