多元王朝説
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九州王朝
天孫降臨として伝えられる出来事(BC2世紀)から、702年(670年、704年とする説もある)の間、筑紫に中国王朝に朝貢し、朝鮮半島に出兵した王朝があったとする。邪馬壱国(邪馬一国)や倭の五王、『隋書』「東夷伝」に記された俀国(俀国は倭国の誤記後刻ではなく、俀(タイ)国と考える)も九州王朝とする。磐井の乱や継体の乱はなかった、と最近主張されている。詳しくは(九州王朝説)を参照
高良記
『高良記』には九州王朝の系譜とされるものが記されている。まず、高良大神の孫をその子孫として、*(1) 斯礼賀志命神、(2) 朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4) 渕志命神、(5) 谿上命神、(6) 那男美命神、(7) 坂本命神、(8) 安子奇命神、(9) 安楽応宝秘命神 といった神が記されており、さらに、 *〈1〉物部日良仁光連、〈2〉日往子明連、〈3〉日男玉頼連、〈4〉神力玉依連、〈5〉日光玉一連、〈6〉日往玉尊連、 * 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩といった系譜がある。この中には「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号がある。九州王朝説の根拠の一つであり、これは九州王朝において天皇制が施行されていた根拠であるとされるが、記される神名(人名)は古代系図と思えない奇妙なものが並ぶ。なお大和王権は九州王朝の「天皇」の下の「大王」としての位取りであったとしている[要出典]。
出雲王朝
近畿・大和王朝
関東王朝
稲荷山古墳の被葬者は関東に存在した王朝の「加多支鹵大王」に仕えていたとする。
東北王朝
主な論者
12年誤差説
筑紫朝廷論
この邪馬台国は、やがて筑紫朝廷に発展したとするのが九州王朝説である。
根拠
次のことから、近畿天皇家は本来九州王朝の臣下であり、白村江の戦いの前後から次第に独立していったと考えられる。
- 「中国正史」によると、用明天皇は九州王朝のタリシホコの補佐官であったという(なお、新唐書によると多利思比孤が用明天皇であったとされ、「中国正史」が何を指すのか不明)。[2]
- 神武天皇は九州から東征した。
- 「大倭」や「真人」といった名称を付ける天皇もいるが、これらは九州王朝の官職名であると考えられる。
また、次の王朝も九州王朝に服従していたと考えられる。
- 東北王朝は『東日流六郡誌』によると、邪馬壹国に朝貢していた。
- 吉備王朝も九州王朝に従っていた可能性が高い。
- 讃岐王朝は九州王朝に滅ぼされ、その後、伊予王朝が成立した。
- 四国南西部にも九州王朝に服従する王朝があり、倭国と環太平洋文明圏の入り口となった。
ただし全ての「根拠」は正しい根拠に基づいておらず、九州王朝が実在したとは到底証明できるものではない。
海外王朝
倭国の版図は海外にも広がっており、日本列島外の倭人も独自の王朝をきずいていた、とする。
南米
『魏志』に出てくる裸国・黒歯国は九州王朝の朝貢国である。[3]其れは以下の理由による。
豪州
オーストラリアの先住民である黒人は『梁書』に出てくる「海人」である。尚、『梁書』では倭人が海人を食用にしていたと記されているが、これは古代にも人種差別があった証拠である。中南米のオルメク文明には、黒人をかたどった彫刻があるが、これは倭人によって連れてこられた黒人であると考えられる。
朝鮮
朝鮮は九州王朝の朝貢国であった。それは以下の理由による。
- 『山海経』によると、朝鮮南部は倭人が住んでいた。
- 朝鮮人は倭国に王子を人質として出していた。