大塚金之助
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- 出生から修学期
1892年、東京府神田で生まれた[1]。旧制神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)[1]を経て、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進学。在学中は授業料免除特待生であり、坂西由蔵ゼミで学んだ[1]。その後東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部に進み、坂西の師にあたる福田徳三ゼミで指導を受けた[1]。1916年に卒業[1]。
- 経済学研究者として(戦前)
1916年、東京高等商業学校講師嘱託に就いた[1]。1917年に同教授昇格[1]。1919年に渡米してコロンビア大学に入学し、統計的経済理論を学んだ[1]。1920年にロンドン大学に入学し、シドニー・ウェッブ教授の社会思想史講義を受講[1]。同年、ベルリン大学に入学し、初めオーストリア学派を、のち戦間期ドイツヴァイマル共和政の惨状を前にマルクス主義に傾倒し社会科学を専攻[1]。当時はちょうど東京高商の大学昇格にあわせて拡充がなされていた時期で、多くの教員が留学に出ており、同僚の本間喜一、渡邉大輔、井藤半彌、金子鷹之助、増地庸治郎、吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。ただ、加藤由作は大塚や井藤、本間らの将棋の誘いなどに応じず、一人で研究に没頭していたという[2]。
1923年、関東大震災発生の報を聞いて帰国し、1924年に東京商科大学(現・一橋大学)助教授に就いた。1927年に同教授昇格。やがてマルクス経済学者として名を馳せるようになった[1]。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作や尾高朝雄の支援を得て設立された東京社会科学研究所の所長に就任。同研究所には杉本栄一や高島善哉が所員として参加した[1][3]。
1931年からは『日本資本主義発達史講座』編集に参加[1]。1932年冬、警察の追及を交すために潜伏。1933年1月10日、静岡県湯河原温泉の旅館で『日本経済思想史』を執筆していたところを警視庁特高課員により治安維持法違反の容疑で逮捕された[4]。同じ時期に河上肇元京都帝国大学教授とともに検挙され、豊多摩刑務所に収監される。その後懲役2年執行猶予3年の刑が確定し大学を免官となる[5][1]。さらに、公職につくことを禁じられ、終戦まで無職で過ごした[1]。
- 太平洋戦争後
戦後、一橋大学教授に復帰[1]。1947年には高瀬荘太郎に代わり東京商科大学経済研究所所長に就任し、1949年に中山伊知郎と代わるまで組織再編にあたった[6][7][1]。岩波新書戦後第1号『解放思想史の人々』を執筆[1]。 1950年、日本学士院会員に選出され、皇居にも招かれたが病気を理由に辞退した[8]。同年経済学史学会創立発起人[1]。
1956年に一橋大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も一橋大学社会学部講師として教鞭を執った[1]。1956年4月からは慶應義塾大学経済学部講師(1974年まで)[1]。1957年からは明治学院大学経済学部教授[1]。1966年フンボルト大学名誉哲学博士及びドイツ国立図書館名誉終身閲覧者[1]。1973年、日本ドイツ民主共和国友好協会会長[1]。