1534年(天文2年)、伊達氏14代当主・伊達稙宗の十三男として誕生。伊達氏15代当主晴宗の弟、17代当主政宗の大叔父。6歳で出家し、伊達家の菩提寺東昌寺の第十四世住職となり、一風軒と号した。伊達家の外交官として活躍した[1]。
後に資福寺住職となる虎哉宗乙を、第16代当主輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の学問の師に推挙した[2]。
大有康甫和尚の代に、米沢にあった東昌寺は1590年(天正18年)政宗とともに岩出山に、1600年(慶長5年)の仙台築城の際に仙台の北山の地に移転している。1618年(元和4年)9月10日、示寂、84才[3]。
ところで、貞山公治家記録によれば、1590年(天正18年)4月5日政宗の母義姫による政宗毒殺未遂事件が発生したので、政宗は同月7日に弟小次郎擁立の芽を摘むため小次郎を手打ちにしたところ、その晩義姫が黒川城から実家の最上家に逃げ帰ったとされている[4]。
しかし、近時(1999年)、義姫の出奔時期は事件直後ではなく、同事件の4年後の1594年(文禄3年)11月4日の夜に岩出山城から実家の最上に出奔したと記載されている文書が発見されるに至っている。その文書とは、1594年(文禄3年)11月27日付け岩出山の虎哉和尚から京都にいた大有康甫和尚に宛てた手紙(仙台市博物館保管)である[5]。
そして、同文書の存在や事件後に政宗が義姫に宛てた情愛ある手紙が伊達家文書の中には数多く残っていること、小次郎は殺されることなく東京都あきる野市にある大彼岸寺に秀雄との名で預けられ、のち同寺の15代住職になったとの過去帳等の資料があること、政宗が大彼岸寺に白萩を所望する書状をだしていること、政宗に長男秀宗(のちの宇和島藩主)が誕生したのは事件の翌年であり、小次郎を殺せば伊達の血統が途絶えることになることなどから、政宗毒殺未遂事件や小次郎殺害事件自体は、政宗と義姫らによる、政宗が小田原で万が一のことがあった場合の伊達家存続のための狂言であるとの有力な説が主張されるに至っている(佐藤憲一)[6]。