大村純毅

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生年月日 1903年4月11日
没年月日 (1974-04-17) 1974年4月17日(71歳没)
大村 純毅
おおむら すみたけ
生年月日 1903年4月11日
出生地 静岡県静岡市
没年月日 (1974-04-17) 1974年4月17日(71歳没)
死没地 長崎県大村市
出身校 陸軍士官学校
称号 伯爵正四位・勲三等旭日中綬章
親族 大村純之(従兄弟、長崎県議会議員)
当選回数 4回
在任期間 1952年12月10日 - 1968年12月9日
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大村 純毅
おおむら すみたけ
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1924年 - 1945年
最終階級 陸軍中佐
除隊後 大村市長
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大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年明治36年)4月11日[1] - 1974年昭和49年)4月17日[1])は、日本の昭和時代の華族陸軍軍人政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主[2]。大村市名誉市民[3]

大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。[4]

学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け[5]学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官[6]。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した[7]1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵[1]。終戦後、1945年(昭和20年)12月1日予備役編入。

1946年(昭和21年)大村に移住し、食料増産のため大村殖産株式会社を設立、農産物、種苗、畜産物、海産物事業に奮闘した[8]1947年(昭和22年)5月3日、新憲法発布の記念日に際して、空襲で焼け残った自己の蔵書と有志寄贈の図書をもって大村公園入口(旧司令部跡)に私立図書館を開館した。同年10月、全蔵書とともに大村市に移管し大村市立図書館が開館する際の蔵書の母体の一つとなった[9][10]。この間、1949年(昭和24年)には当時逃亡中だった陸軍士官学校同期生の辻政信を一時庇護したことがある[11]

1951年(昭和26年)、大村市競艇場候補地として、大村家への要請があり、大村家当主として由緒ある「玖島が崎」をギャンブルに使用することを怒り固辞したが、従兄弟の大村純之 市議会議員からの連日の説得により市財政のためならやむをえずと許可した。[12]

1952年(昭和27年)12月、講和条約が発効し日本が主権を回復して初めての大村市長選に出馬し当選[13]。以後4期16年間市長を務めた。1968年(昭和43年)12月、4期目の任期満了に伴い市長を退任[14]

1970年(昭和45年)、株式会社大村湾カントリー倶楽部を設立し社長に就任、2年後地元のためにゴルフ場を完成させた[15]1973年(昭和48年)10月の大村市立資料館の開館前に旧大村藩主大村家所蔵の「大村家資料」を大村市へ寄託[16]

1974年(昭和49年)4月17日、胃がんのため死去した(71歳)。その訃報は旧大村藩領の役場にまで届けられた。死没直前の同年3月11日、大村市への功績により大村市名誉市民 第1号 が贈られ[3]4月20日、大村市民会館において大村市初の市民葬が執り行われた。 正四位勲三等旭日中綬章[17]

親族

会津藩主家の松平保男子爵の娘の芳子は妻[1]。墓所は大村市の本経寺[17]。郷土史研究家として活躍している勝田直子は純毅の娘である[1]。ちなみに現当主の大村秀成は直子の子にあたる[1]

伝記

1976年(昭和51年)3回忌に合わせて、『大村純毅傳』が刊行された。これは、旧大村藩出身者と縁故者の会である東京大村会から伝記編纂刊行が企てられ、今里広記を会長に「大村純毅伝刊行会」が組織され、松本寅一市長や松田毅一藤野保など約130名におよぶ寄稿文と、福田清人が纏めた小伝からなる。[18]

『大村純毅傳』には、東京における幼少期の旧藩主家としての生活[19]や、会津藩松平家との関係、陸軍士官学校や陸軍歴、東京大空襲時の大村邸、一変した終戦後の生活、市長選出馬までの経緯、市長の時代、新憲法下の民主的な運営、大村市のインフラ整備、殖産興業、財務改善、大村市史編纂、「オオムラザクラ」の皇居へ献木などが、関係者の文章で残されている。装丁も凝っており今では貴重な活版印刷で刷られ、稀に字が横を向く愛嬌がある。

大村市長時代

「新鮮明朗な市政」をモットーに1953年(昭和28年)11月、市の機構改革を実施した。主なものは「秘書課」を新設し公平な人事と法規の整備を行うこと、「市民課」を新設し、市民に直接関係のある事項を総合専念させること、「福祉事務所」を新設して、市民の福祉行政を能率的に行うことであった。[20]

また、大村市発展のために会社・官庁を誘致した。主なものとして、海上保安庁航空基地の開設(昭和28年)、東浦県立病院の開院(昭和28年)、国立真珠研究所の開設(昭和30年)、九州電力大村火力発電所の誘致(昭和30年)などである。特に九州電力大村火力発電所の誘致には、地権者の極度の反対に遭いながら、市の将来のために、1ヶ月以上毎晩、各家庭をじゅんじゅんとひたすら説得に努め、全員の承諾をとって実現した[21][22]

市の財政は就任時に全く困窮しており、毎年度の累積赤字を抜本的に解消するために1956年(昭和31年)12月に地方財政再建整備法の適用を受けて政府より低利の融資を借入れ、昭和32年度末に黒字へ好転、8カ年期限の借り入れを7カ年で完済した[21]

4期16年間に整備や設置が行われた主なものは、次のとおりである。 敬老院の開院(昭和29年)、大村市立病院を並松郷に移転改築(昭和30年)、大村空港(昭和34年)、海上自衛隊大村航空隊(昭和31年)、大村耐火(昭和30年)、し尿処理場(昭和35年)、萱瀬ダム(昭和36年)、市営火葬場(昭和37年)、新市庁舎の完成(昭和39年)。大村市民会館(昭和42年)、消防新庁舎(昭和41年)、3中学校を統合し玖島中学校の新設(昭和41年)、市内の小・中学校校舎新築増設。土木建築については、1957年(昭和32年)の大水害の後始末、市内の殆どの河川全橋梁の架け替え、護岸改修、市営住宅建築(昭和39年〜昭和43年)等[23]

  • 大村公園 (昭和35年)

指示策定した整備計画には「城跡地区は、史跡風致の保存につとめ(中略)その一部を花菖蒲園とする」「玖島崎先端は、現存樹木を育成し、キャンプ場として解放する」とある。花菖蒲は、由緒ある明治神宮から移植された70種、618株が含まれる[24]

大村小学校から玖島崎までは殆ど大村家の所有地で、大正8年に玖島城跡仰風会が組織され、父の大村純雄の許可を得て借り受け、一般に解放されたのが大村公園の始まりとされ、都市計画公園の指定を受けていたが、陸上競技場周辺を建設当時、市が一部買い受けていたほか大半は無償借用していた。最後の任期の頃、市より譲渡の相談をしたところ「大村公園も世間並みに施設も出来たようだし、市民も楽しく親しんでくれているので、風致や自然が壊されることもなくなった」として譲渡に応じ、公園内の全樹木も寄付された[24]

  • 「大村市史」の刊行 (昭和36〜37年)

市政20周年記念事業として編纂され、上巻は旧大村藩領48カ村の歴史、下巻は、大村市の市政、産業、経済、市民生活に亘る現代史及び地理を詳述。題字は大村純毅の揮毫[25]。なお、大村史談会は昭和28年発足し昭和39年に「大村史談」第1号が発刊しており、昭和41年名誉顧問に就任している。[26]

  • 大村市社会福祉協議会の設立(昭和31年)[27]
  • 市内農協の統合、県下第1号で大村市農業協同組合発足(昭和38年)[28]
  • 「オオムラザクラ」が国の天然記念物の指定を受け、皇居へ献木(昭和42年)。入江侍従長が仲介して、昭和天皇へ直接献上されたが、生前は非公表とされており、伝記刊行で判明した。今では「オオムラザクラ」は大村市の市花となっている[29]
  • 『大村純忠伝』(松田毅一著)が、大村市立図書館内の刊行会より発刊されるときに「郷土を愛するということは国を愛することである」からはじめる序文とを寄せている。題字は大村純毅の揮毫。(昭和30年)

栄典

勲章

顕彰等

  • 大村市名誉市民 (1974年3月11日) [3]

脚注

参考文献

関連書籍

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