大津御所体制

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大津御所体制(おおつごしょたいせい)は、安土桃山時代土佐国における、土佐一条氏を国主とし、頂点とした政治体制。長宗我部元親が一条氏当主の一条内政(大津御所)を後見する体制でもあった。

歴史学者秋澤繁によって提唱された[1]。ただし、この御所体制という概念の存在を疑問視する研究者もいる[2]

土佐一条氏の家督交代

一条兼定

戦国時代土佐国には土佐七雄と呼ばれる国人らが割拠し、土佐一条氏が盟主として七雄の上位にあった[3]。だが、戦国時代末期になると、七雄の一つである長宗我部氏の当主・長宗我部元親が土佐国内で勢力を拡大し、他の七雄を次々に下してゆき、盟主である一条氏も圧迫するようになってきた[3]

天正元年(1573年)、土佐一条氏の当主・一条兼定が老臣の土居宗珊を手討ちした[4]。『土佐物語』には兼定が宗珊の諫言に激怒したことが発端として記されているが、『土佐軍記』では兼定が宗珊の裏切りを偽装した元親の策略に嵌められたからだとしており、詳細は不明である[5]。これにより、兼定は当主としての信望を失い、土佐一条氏の家中に混乱が発生した[6][4]

7月、一条家(宗家)の当主・一条内基が土佐の幡多郡へ下向した[5]。内基は下向に際し、上京の火事を理由として朝廷室町幕府に申請していた[5]。だが実際は、土佐一条氏の家臣らが家中の混乱によって前途を危惧し、京都の一条本家に救済を願い出たため、内基が火災を口実に下向したと考えられている[5]

9月、土佐一条氏の家臣らによる合議のもと[6]、兼定が出家・隠居させられた[4][7]。そして、兼定の嫡子・万千代が新たな当主になると、内基はその元服を執り行い、偏諱(「内」の一字)を与えて「内政」と名乗らせた[4][5]。なお、この家督交代には元親も絡んでいたとみられる[8]

大津御所体制の成立

長宗我部元親

天正2年(1574年)2月、一条兼定は中村城(中村御所)を出て九州へ渡り[9]豊後大友氏を頼っている[9]。従来、兼定は老臣達によって追放されたとされてきたが[10]、実際は元親と一条内基との協議、あるいは内基の了承により、元親が兼定を追放したとされている[11][12][13][14]。また、兼定の追放は元親が土佐一条氏への介入を進めるべく、内基と交渉したうえで、一条氏の家臣に行わせたとする見方もある[15]

だが、兼定の追放は土佐一条氏の家臣らに混乱を引き起こし、抗争を招いた[16]。『長元記』によると、土佐一条氏の家老らと幡多郡の国人との対立や、一条氏の家礼の公家たちが立ち退いた後の領地を巡って衝突が起きたようである[17]。実際、一条氏家老(幡多郡安並城主)の安並因幡守が天正2年11月に死亡[注釈 1]していることから[17][4]、同年に幡多郡で争乱が起きたのは事実とみられる[17]

そのため、元親が「危険な場所に内政を置くことはできない」として、この争乱に介入した[17]。元親は一条内政を幡多郡の中村城から長岡郡大津城に移し、自身の娘を嫁がせ、「大津御所」という傀儡にした[16][18]。また、元親は中村城に弟の吉良親貞を入れたことで、幡多郡を手中に収め、土佐をほぼ制圧した[16]

この元親が内政を後見する大津御所体制は、天正2年末に実現したとみられる[19]。内基が京都から土佐に下向した目的は、土佐一条氏の大名的性格を解体し、元の在国公家に戻す意図があったとされ[15]、内政が中村城から大津城に移ったのもまたその一環であり、内基の下向段階からの既定路線であったとする見方もある[20]。一連のそれは、内基と元親との交渉の下で行われていた[19]

大津御所体制への反発・長宗我部氏による幡多郡支配

とはいえ、元親が一条内政を大津に移住させたことや、幡多郡を長宗我部氏が管理すること、さらに土佐一条氏を大名でなくすことには、やはり納得できなかった一条氏の家臣らがいた[20]。そうした不満が一条氏の家臣の間で蓄積していった[20]

天正3年(1575年)5月、一条内基が土佐から帰洛した[5]。その際、内基は元親に対し、内政の庇護や養育を依頼したという[5]

7月、前当主の一条兼定が再起を図って、伊予南部の諸将を率い、土佐に攻め込んできた[16][21]。大津御所体制に反発する土佐一条氏の家臣らが兼定を当主に戻そうと協力したことで、兼定は中村城とその城下町以外の幡多郡を回復するに至った[22]。やはり、大津御所体制やそれを通しての長宗我部氏による幡多郡支配に対しては、一条氏の家臣に大きな不満があったとみられる[22]

そのため、元親は一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、9月に四万十川の戦いで兼定を撃破した[23]。こうして、元親は幡多郡を完全に手中に収め、土佐を統一するに至った[24]

天正8年(1580年)6月、元親が弟の香宗我部親泰を安土に派遣し、織田信長と対面させた。なお、この時のことを記した『信長公記』天正8年6月22日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条氏の当主である内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認し、元親の行動に一条氏の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである[1]

大津御所体制の崩壊

天正9年(1581年)2月、元親は一条内政を伊予の法華津に追放した[25][16][26]長宗我部氏に対する謀叛を企てた波川清宗に加担した嫌疑をかけられたことが内政の追放理由であるが、この清宗は内政を担ぎ上げることで土佐一条氏を復権させ、元親による大津御所体制を転覆しようとした可能性が指摘されている[27]

他方、元親は内政の嫡子(元親の孫でもある)・一条政親を大津にとどめたのち、長岡郡の久礼田に移住させた[28]。そのため、政親は「久礼田御所」と称された[3]

5月、土佐一条氏の諸大夫2名が朝廷から叙位・任官を受けているが、これは元親が政親による「久礼田御所体制」を立てようとしたお膳立てだとみられる[28]。長宗我部氏が幡多郡を支配して既に数年が経っていたが、元親は土佐一条氏そのものを消すにはまだ早いと判断したようである[28]

だが、内政を追放したことは、土佐一条氏を頂点とする大津御所体制の崩壊を意味していた[29]。これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正8年6月以後の状況の変化により、元親の織田政権政策が強硬寄りに変更されて、「信長―内政―元親」の秩序を拒否した結果とされている[1]。大津御所体制の解体を契機として、信長は元親に対する警戒を強め、対応を厳しくした[29]

「佞人」の讒言

天正9年の冬(同年10月から12月の間)、「佞人」が信長に元親のことを讒言し、そのせいもあって両者は断交寸前に至ったが、近衛前久がとりなした、と(天正11年)2月22日付石谷光政・頼辰父子宛て近衛前久書状(『石谷家文書』1号文書)に記されている[30][31]

前久が言及するこの「佞人」については、信長と前久の良好な関係を妬んだ高位の公家、当時現職の関白だった一条内基であったとみられる[19]。内基は天正9年4月には左大臣から関白に昇進し、藤氏長者にもなっていることから、前久がライバルとするには十分な立場にあった[19]

内基が信長に讒言した理由としては、大津御所体制を元親が崩壊させたことがあげられる[19]。この体制は内基自らが土佐に下向し、元親との交渉の末に実現したものであったので、内基がその崩壊に憤りを感じ、信長に讒言した可能性がある[32]。また、内基は近衛前久と公家衆の頂点の座を巡って争う関係にあったことから、前久に対抗する意図もあったと考えられる[33]

とはいえ、大津御所体制の崩壊によって、信長がこれまでの四国政策を変更し、元親に対する態度を変えたのは事実である[34]。そして、この信長による四国政策の変換が各地の情勢に大きな変化をもたらし[34]、長宗我部氏と毛利氏の同盟(芸土同盟[35]、織田方による四国攻め計画、引いては天正10年(1582年)6月の明智光秀による本能寺の変に繋がっていった[36]

脚注

参考文献

関連項目

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