大谷廟堂
京都吉水北辺にあった親鸞の墓所
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歴史
弘長2年(1262年)11月28日に親鸞は入滅し、京都鳥部野北辺の「大谷」に葬られる[1]。
入滅から10年後の文永9年(1272年)に東国に居る親鸞の弟子達の協力を得た親鸞の娘覚信尼により、「大谷」から「吉水の北辺」に改葬し「大谷廟堂」が建立される[1]。
文永11年(1274年)、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は廟堂の敷地を寄進した覚信尼が任じられる[1]。
正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間に起こった留守職就任問題(唯善事件)が勃発する。
徳治元年(1306年)に覚恵は唯善に大谷廟堂の鍵を強奪されてしまい、廟堂は唯善に占拠される。翌徳治2年(1307年)に覚恵は三条朱雀にて入滅する。
延慶2年(1309年)7月、妙香院[2]により大谷廟堂留守職は、覚如に継承される事が裁定される。敗れた唯善は大谷廟堂を徹底的に破壊し、「御影像」(親鸞の木像)と遺骨の一部を奪い、鎌倉へ逃亡する。
東国門徒は、大谷廟堂留守職継承を血縁に限定されるのを嫌い、覚如が留守職を継承することを無条件には認めなかった。そこで覚如はやむなく留守職継承を前提とした『十二か条からなる懇望状』(同年7月26日付)を記す。
延慶3年(1310年)に覚如は勧進と留守職承認の懇願のために東国へ赴く。半年に渡る懇願の末、承認されると正式に留守職を継承する[1]。
応長元年(1311年)、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と廟堂を再建する。
応長2年(1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようとし、「専修寺」と書かれた額を掲げるが、延暦寺の反対により撤去する。『存覚一期記』によると、高田門徒の真仏上人の門弟である法智がこの「専修寺」の額を下野国にある高田の如来堂に持ち帰ったという。後に如来堂は専修寺に名称を改めている。
元亨元年(1321年)に覚如は再度寺院化を試み、今度は「本願寺」と号して寺院化に成功する[1]。
寛正6年(1465年)、本願寺8世蓮如が宗主の時に本願寺は延暦寺西塔の衆徒により破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」は創建の地にあった[1]。