大谷祖廟
京都市東山区にある真宗大谷派(東本願寺)の親鸞の墳墓
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
草創
弘長2年(1262年)11月28日に浄土真宗の宗祖・親鸞は弟の尋有僧都の住坊・善法坊(現・本願寺角坊)において90歳で示寂すると、翌29日に東山鳥辺野の南にあった延仁寺(現・大谷本廟 御荼毘所)で荼毘にふされた。そして翌30日に拾骨されると鳥辺野の北にあった「大谷」に墓所が築かれ、納骨された[1][2]。 その後、文永9年(1272年)の冬に親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た親鸞の末娘である覚信尼によって、鳥辺野の「大谷」の地にあった親鸞の墓は「吉水の北の辺」(現・知恩院塔頭崇泰院がある地)に改葬され、大谷廟堂とよばれる六角円堂が建立された[2]。
元亨元年(1321年)に、覚信尼の孫である覚如が大谷廟堂を寺院化し、本願寺(大谷本願寺)と改名する(本願寺の歴史の詳細は、「本願寺の歴史」を参照)[1]。
寛正6年(1465年)、浄土真宗本願寺派の本願寺8世蓮如の時に比叡山延暦寺西塔の衆徒らによって大谷本願寺が破却され(寛正の法難)、蓮如は近江国に避難する[1]。一方で、破却された大谷本願寺には親鸞の墓である祖廟は残され、井上願知によって守護されると草庵が建てられて「大谷道場」と称された。
蓮如は文明15年(1483年)に本願寺を再興させて、山科(現・京都市山科区)の地に山科本願寺を建立する[1]。しかし、本願寺10世証如の代になると、天文元年(1532年)に天文の錯乱が勃発し、8月10日に法華一揆によって「下の一向堂」と呼ばれていた大谷道場が焼き討ちを受けて焼失した。8月24日には山科本願寺が細川晴元と六角定頼、及び法華一揆の連合軍の攻撃を受けて陥落し、全山炎上した[1]。大谷道場は後に願知の子孫である祐願によって復興するが、本願寺は大坂御坊に移転し、大坂本願寺(現・大阪城の地)を成立させた[1]。
その後、本願寺11世顕如は織田信長と合戦し、石山合戦に発展すると[1]、元亀2年(1571年)に大谷道場は攻められて焼失した。
そして、大坂本願寺は天正8年(1580年)に信長に明け渡されると[1]、顕如は翌天正9年(1581年)に紀伊国の鷺森御坊を鷺森本願寺とし、天正11年(1583年)には和泉国の貝塚道場を貝塚本願寺として移転する[1]。
天正13年(1585年)になると、顕如は豊臣秀吉のはからいにより、かつての大坂本願寺の北西にある天満に移転して天満本願寺を建立する[1]。天正17年(1589年)には祐願の妻・妙祐と子息の祐誓が大谷道場を再建すると、大谷道場は秀吉から地銭免除の朱印状を受けた。
天正19年(1591年)、顕如は秀吉より京都の堀川六条に寺地を寄進されると、天満本願寺を移転させて本願寺(いわゆる西本願寺)を建立した[1]。
慶長5年(1600年)に徳川家康によって知恩院の境内の拡張工事が行われることになると、知恩院の西側に位置していた大谷道場は移転を余儀なくされた。そこで、まず大谷道場にあった堂舎が撤去されることとなり、秀吉によって本願寺の住持を隠居させられていた教如の命によって、祐誓が四条富小路に堂舎を移し、徳勝寺[注 2]を建立した。しかし、祖廟は移転されずに残されたままであった。
東西分立
慶長7年(1602年)に教如が本願寺派から分派して真宗大谷派を立ち上げ、新たな本願寺(現・東本願寺)を建立すると、その境内に大谷派としての親鸞、及び本願寺歴代の仮墓を建立する。
慶長8年(1603年)、祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞を荼毘に付したといわれる延仁寺の旧地と伝えられる鳥部山に家康から大谷道場の代替地を拝領すると、大谷道場跡地に残されていた祖廟をそこに移転させた。また、この地を「大谷」と呼ぶようになった[2]。そして、善了はそれまで親鸞の墓を守っていた堂舎の名称である「大谷道場」の名を「勝久寺」と改名した。一方、大谷道場跡地には知恩院の塔頭崇泰院が建立された[2]。しかし、知恩院の作事奉行の1人である勝誉道清によって、親鸞の墓があった一角は祖墳遺跡として崇泰院の境内に残された。
慶長10年(1605年)には勝久寺に仏殿が建立されている[2]。
寛永16年(1639年)に勝久寺は本願寺派の西本願寺に直属することとなる。後に勝久寺は西本願寺の飛地境内とされ、親鸞廟所として整備されていくと現在の大谷本廟に改名された。
勝久寺が西本願寺の末寺になったことにより、東本願寺では新しい祖廟の造営が求められるようになる。寛文10年(1670年)に、東本願寺第14代琢如は、東本願寺境内に置かれていた親鸞、及び本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に東山にある現在地に移し、大谷御坊を設立した[3]。また、親鸞の墓は御廟と呼ばれる[4]。
元禄12年(1699年)、第16代一如は大谷御坊にある御廟の改築に着手する。翌元禄13年(1700年)4月12日に一如が入滅すると、それにともない改築工事は一時中断となる。元禄14年(1701年)に第17代真如が一如の一周忌厳修の後に改築工事を再開し、本堂が完成する。また、同年に御廟の改葬を行っている。元禄16年(1703年)には真如により遷仏会が行われている。
延享2年(1745年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、大谷御坊に隣接している長楽寺から境内地1万坪を没収し、そのまま大谷御坊に寄進した。これにより寺基が拡張された。
文政3年(1820年)に大谷新道が開かれる。安政4年(1857年)には大谷新道南北の畑地を買い取っている。
1872年(明治5年)に大谷御坊は大谷管刹(おおたにかんさつ)と改称されたが、1876年(明治9年)には大谷別院に改称された。
1952年(昭和27年)、大谷別院は東本願寺の飛地境内[4]と定められて大谷本廟と改称する。しかし、本願寺派の親鸞祖廟も大谷本廟と呼ばれるために、1981年(昭和56年)に現在の名称である大谷祖廟に改められている。
東本願寺は江戸時代に四度の火災に遭っているが、その際には大谷祖廟が御真影(親鸞の木像)の避難所となった。文政6年(1823年)の2度目の火災は11月15日であったため、この年の11月21日から28日までの七昼夜の御正忌報恩講は大谷祖廟において勤められた。
境内
- 御廟 - 宗祖親鸞ならびに真宗大谷派御歴代の墓所[4]。
- 拝所
- 鐘楼
- 南門
- 寺務所
- 本堂 - 元禄14年(1701年)建立[3]。本尊である阿弥陀如来立像を安置する。2010年(平成22年)に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業「大谷祖廟木造諸建物整備事業」の一環として修復されている[5]。
- 庫裏
- 賀慶殿
- 茶室
- 北門
- 太鼓堂 - かつては2階部分の太鼓で時間を知らせていた。現在は時計が普及したため使用されていない。
- 総門(表唐門) - 四脚御門。東大谷参道側の門。2010年(平成22年)に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業「大谷祖廟木造諸建物整備事業」の一環として修復されている[5]。その修復工事の際に、屋根内部より「文久二年壬戌歳 二月廿日上棟 四脚御門建立」と記された棟札が発見された。それまでは「上壇間日記」[注 3]の記録から、唐門(四脚御門)は安政4年(1858年)以降に東本願寺から移築されたものと考えられていた。しかし、安政5年(1857年)の東本願寺焼失により移築予定の門も焼失したため、現存する「表唐門」は新築されたことが確定した[5]。
- 本堂
- 総門(表唐門)
- 太鼓堂
行事
- 花まつり - 4月1日-8日に開催。
- 暁天講座 - 8月1日-5日(毎朝6:30-7:30)に催される早朝法座。
- 東大谷万灯会(ひがしおおたにまんとうえ) - 8月14日-16日に、「大谷祖廟」と「東大谷墓地」において催される。期間中の18:00-21:00には、吊るされた約1万個の提灯の蝋燭に火が灯される[3]。期間中の19:00-20:00に、本堂において「万灯会お盆法要」を厳修する。
- 報恩講 - 9月27日・28日。
- 定例法話 - 先門首の命日である13日と、宗祖親鸞の命日である28日に開催される法話会。8月13日・9月28日・11月28日・12月28日は休会。
所在地
- 京都府京都市東山区円山町477