大賀良平

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 (2006-06-25) 2006年6月25日(83歳没)
日本の旗 日本 東京都
軍歴 1939年 - 1945年(帝国海軍)
1952年 - 1954年(警備隊)
1954年 - 1980年(海自)
大賀おおが 良平りょうへい
[[ファイル:<div style="text-align: center;">{{{size}}}
画像をアップロード|200px]]
生誕 1923年4月24日
日本の旗 日本 長崎県
死没 (2006-06-25) 2006年6月25日(83歳没)
日本の旗 日本 東京都
所属組織 大日本帝国海軍
海上保安庁
海上警備隊
警備隊
海上自衛隊
軍歴 1939年 - 1945年(帝国海軍)
1952年 - 1954年(警備隊)
1954年 - 1980年(海自)
最終階級 海軍大尉(帝国海軍)
海上幕僚長たる海将(海自)
除隊後 財団法人水交会会長
日本無線顧問
テンプレートを表示

大賀 良平(おおが りょうへい 、1923年大正12年)4月24日 - 2006年平成18年)6月25日)は、日本海軍軍人及び海上自衛官海上保安官である。海軍兵学校卒業(第71期)。第12代海上幕僚長

長崎県出身。長崎県立瓊浦中学校 (旧制)に進学。成績は抜群であり、中学四年時に友人に誘われ海軍兵学校を受験し合格した。卒業後は軽巡洋艦阿武隈」に航海士として乗組みアッツ島沖海戦などのアリューシャン方面の戦いに参加。キスカ島撤退作戦では、後の海上幕僚長の石田捨雄と一緒であった。その後、潜水艦乗組みとなり、海軍潜水学校を卒業。新鋭潜水艦「伊号第二〇二潜水艦」の航海長などで勤務し舞鶴終戦を迎えた。

1945年(昭和20年)12月、充員召集され復員事務官として復員業務に従事。1948年(昭和23年)5月、海上保安庁が設置されると海上保安部に勤務し瀬戸内海等の業務掃海に従事した。朝鮮戦争勃発に伴いGHQの指示により朝鮮海域で掃海作業が行われることとなり、1950年(昭和25年)11月から日本特別掃海隊第5掃海隊の指揮官として鎮南浦海州市沖合いにて掃海作業に従事した。1951年(昭和26年)1月、海上保安官に転官(三等海上保安正)。

1952年(昭和27年)8月、海上警備隊発足により転官。その後、海上自衛隊においても約10年にわたり掃海畑を歩む。海上幕僚監部防衛部勤務では3次防の主要項目の実現や4次防の策定に携わった。また、掃海出身の立場から水中処分員の育成、機雷処分の研究のため、実機雷を使用した敷設訓練、水中爆破訓練を推進。掃海艇による機雷処分方法の研究作業も計画した。その後、護衛艦隊司令官、大湊地方総監などの要職を歴任し、第12代海上幕僚長に就任。前海幕長の中村悌次は、幕僚長は長期間安定していなければならないとして海兵で4期後輩の大賀を後任に指名した。しかし、1年も経たずして胃潰瘍になり入院。復帰後はそれまで集団的自衛権の問題でオブザーバーの派遣のみであった環太平洋合同演習(リムパック)に部隊を参加させることを実現し、それを置き土産に勇退した。

年譜

栄典

  • レジオン・オブ・メリット・コマンダー - 1978年(昭和53年)5月
  • 勲二等瑞宝章 - 1993年(平成5年)4月29日

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI