天野元信 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長10年7月2日(1605年8月16日)別名 通称:余五郎→五郎右衛門尉 凡例天野元信時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長10年7月2日(1605年8月16日)別名 通称:余五郎→五郎右衛門尉墓所 慰霊碑(山口県萩市堀内 萩キリシタン殉教者記念公園)主君 毛利輝元藩 長州藩氏族 藤原南家工藤氏流金明山天野氏父母 父:天野隆重養父:天野元明(実兄)兄弟 元明、武弘、元祐、元友、元嘉、元信妻 熊谷元直の娘子 与吉養子:元重テンプレートを表示 天野 元信(あまの もとのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士・キリシタン。毛利氏の家臣。 安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、元信の系統は天野政貞から始まる金明山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野興次・天野興定・天野元定の一族の系統は生城山天野氏である。 略歴 天野隆重の六男として誕生。兄・元明の養子となり天野氏の家督を継ぐ。 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に従軍して朝鮮半島に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて武功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に元信の名(天野五郎右衛門)も記されている[注釈 1][1]。 慶長5年(1600年)の毛利氏の防長移封後に、主君・毛利輝元は萩城を築城することとなった。その工事で益田元祥の家臣が工事用の石材を盗んだとして争い、萩城の工事日程に大幅な遅延をきたすこととなる。 結果、慶長10年(1605年)、萩城築城の遅れ[注釈 2]を口実に、元信は輝元によって派遣された桂元綱らによって殺害された。また、岳父・熊谷元直や嫡男の与吉などの幼子も共に殺害された(五郎太石事件)。 これは、輝元からキリスト教の棄教を命令に応じなかったためともいわれる。元信は熊谷元直ともども、キリスト教の殉教者として現在も扱われている。 脚注 注釈 ↑ この朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、浅口元通(細川元通)、吉見広長、三沢為虎、三吉元高、天野元信、日野元重、内藤元盛、三田元盛、和智元盛、平賀元相、三尾元尚(井原元尚)、三刀屋孝和、口羽元良、成羽親成(三村親成)、桂元武、野山朝経、石蟹市郎、伊達三左衛門尉、赤木元重、周布長次、市川元好、吉田元重、馬屋原弥右衛門尉、楢崎政友、福頼元秀、有地元盛[1]。 ↑ 益田元祥との権力争いの側面もある。 出典 1 2 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付け、豊臣秀吉朱印状。 参考文献 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。 国立国会図書館デジタルコレクション 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X。 Related Articles