野山朝経 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 不詳別名 通称:清右衛門尉 凡例野山 朝経時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 不詳別名 通称:清右衛門尉主君 毛利輝元→秀就藩 長州藩氏族 藤姓野山氏父母 父:野山益朝、母:庄勝資の娘テンプレートを表示 野山 朝経(のやま ともつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣で長州藩士。父は備中国の国人である野山益朝。 備中国賀陽郡野山[注釈 1]の野山城を本拠とする国人である野山益朝の子として生まれ、毛利氏に従う[1]。 天正10年(1582年)の備中高松城の戦い後に行われた毛利氏と豊臣政権との国境画定(中国国分)によって、野山氏の所領がある備中国賀陽郡が宇喜多氏に割譲されると、野山氏は長門国に移り住んだ[2]。 天正19年(1591年)に母が死去し、文禄4年(1595年)7月9日には隠居して備中国に戻っていた父・益朝が死去する[2]。 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に朝経も従軍して朝鮮半島に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて武功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に朝経の名(野山清右衛門尉)も記されている[注釈 2][3]。 慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、朝経は191番目に「野山清右衛門尉」と署名している[4]。 没年は不明だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が周防国と長門国に減封されてから、30年程で家は断絶したとされる[2]。 脚注 注釈 ↑ 現在の岡山県加賀郡吉備中央町北。 ↑ この時の秀吉の朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、浅口元通(細川元通)、吉見広長、三沢為虎、三吉元高、天野元信、日野元重、内藤元盛、三田元盛、和智元盛、平賀元相、三尾元尚、三刀屋孝和、口羽元良、成羽親成(三村親成)、桂元武、野山朝経、石蟹市郎、伊達三左衛門尉、赤木元重、周布長次、市川元好、吉田元重、馬屋原弥衛門、楢崎政友、福頼元秀、有地元盛[3]。 出典 ↑ 賀陽町史 1972, pp. 198–199. 1 2 3 賀陽町史 1972, p. 202. 1 2 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付け、豊臣秀吉朱印状。 ↑ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、福原広俊他819名連署起請文。 参考文献 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-3 毛利家文書之三』東京帝国大学、1922年12月。 国立国会図書館デジタルコレクション 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。 国立国会図書館デジタルコレクション 賀陽町教育委員会 編『賀陽町史』賀陽町、1972年7月。全国書誌番号:73003115。 国立国会図書館デジタルコレクション Related Articles