太田輝資 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長8年4月17日(1603年5月27日)別名 資行 凡例太田輝資時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長8年4月17日(1603年5月27日)別名 資行官位 右衛門佐→備中守(受領名)主君 北条氏康→北条氏政氏族 太田氏(江戸太田氏)父母 父:太田資高兄弟 景資、女子、康資、輝資子 紫雲院(松平家信の継室)テンプレートを表示 太田 輝資(おおた てるすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。摂津源氏流太田氏(江戸太田氏)の当主の太田資高の三男(末子)。彼の名の「輝資」は、兄の康資の外伯父の北条氏康の子の氏照(氏輝)、あるいは古河公方一門の足利輝氏の偏諱による一字を与えられたものとされる。 初めは、兄・康資と共に武蔵国江戸城にいたが、兄が同族とされる岩槻(岩付)城主の太田資正と共に里見氏に通じると、これに従わずに資正の嫡男・氏資と結んでこれを放逐した。以後、氏資の武将となるが、氏資が三船山合戦にて戦死した後は北条氏の当主の北条氏政の子で、氏資の養子となった太田源五郎(北条国増丸)・氏房兄弟に仕えた。右衛門佐は北条氏光と重なるために官途名を太田氏ゆかりの備中守に改めたが、備中守は北条氏ゆかりの名前で同氏五代の家中を通じてこの名乗りを許されたのは、輝資が唯一の例であった[1]。 甲州征伐においては、上野国方面から甲斐武田氏の当主の武田勝頼の所領地である信濃国への進撃を命じられたが、進撃に手間取っているうちに、逆に織田信長の武将の滝川一益による上野国進出を許してしまい、親類にあたる北条氏政の怒りを買った。 小田原征伐後に豊臣秀吉の命で、三河国など先祖代々の所領地を召し取られて、関東八州の主として移封された徳川家康より仕官の誘いを受けるが、旧領である武蔵谷古田(現在の埼玉県川口市)に退いて隠遁生活を送っていたという。彼には嗣子がなく、甥の駒千代も、その外大伯父の北条氏康(氏政の父)が追討した軍勢によって、伊豆国熱海の医王寺で自害に追い詰められたことで、道灌系の江戸太田氏の血統が途絶えた見方もある(仔細は太田重正を参照)。 脚注 ↑ 備中守と北条氏の関係は長く不明であったが、北条早雲の実父が伊勢備中守であることが確定したため、北条氏の先祖と重なるこの官途名を名乗ることが避けられたと考えられるようになった。輝資は氏光に名乗りを譲る形になったので特に認められたとみられている(木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年))。 Related Articles