女人短歌

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女人短歌』(にょにんたんか)は、日本の短歌超結社「女人短歌会」の発行する季刊歌誌。 1949年(昭和24年)9月の発刊から、1997年(平成9年)12月の終刊まで、48年間にわたって、女性のために女性自身の手によって編まれた歌誌である[1]

1948年11月5日に準備会が開かれ、川上小夜子若山喜志子北見志保子川口千香枝五島美代子長沢美津が出席し、会名を「女人短歌会」と決定した[2]

五島美代子は、新時代の出発にあたり、わざわざ「女人」という言葉を使って女性歌人だけで集まることに抵抗[3]があったが、長沢美津が「五島さん、あなたは男ですが、女ですか。女なら認められない多くの女歌人のために、自分のだけのことを考えないで、仲間入りするのが当然ではありませんか[4]」と迫った。

五島はこの時の長澤の瞳は「燃え上がる火を底に秘めた、一種凄まじい瞳の色であった。私はその瞳に負けた[5]」と振り返っている。

「女人短歌」創刊にあたり世話人となった川上小夜子・川口千香枝・五島美代子・若山喜志子が連名で発起人を募り、18名の発起人により1949年(昭和24年)3月「女人短歌設立の趣旨」が全国の女性歌人に向けて発信された[6]

「女人短歌会」の第一回総会(出席64名、1949年4月25日)が、銀座「オリンピック」で開催され、北見志保子が発行人となることが決まった。また、北見・阿部静枝・五島美代子・川上小夜子・生方たつゑの5名が編集、長沢美津が庶務会計担当となり、初期の「女人短歌」の礎となった[7]

長沢美津は、その後48年間、事務仕事を一手に引き受けて一度の遅延もなく雑誌を発行し続けた。

創刊号の巻頭には

  • 短歌創作の中に人間性を探求し、女性の自由と文化を確立しよう
  • 女性の裡にある特質を生かして、新鮮で豊潤な歌を作らう
  • 伝統と歴史の中に生きてゐる女性美に、新時代性を積み重ねて成長しよう
  • 同時代の女歌人の相互研鑽と新人の発見に努めよう

の4つの文を持つ「女人短歌宣言[8]」が掲載された。

北見志保子は創刊号において「感想」として

「かうした私共の苦い長い年月を再び後進の女性に歩んで貰ひたくないと切りに思ひだしましたのも、私共の年齢が老に近づいたのかも知れません。さうした考へからこの短歌雑誌が、一つの運動として生れたので、従って今までの古い殻をぬぎ、封建制をすて、唯ひたすら作品の力による向上を目指す明るい集団を作りたいのが念願であります。」[9]

と述べている。

第2号以降、短歌のみならず評論や研究論文、短歌の展望についての座談会などを積極的に掲載した。

また、第2号の発刊後、北見の提案で「女人短歌叢書」の刊行を企画、長谷川書房の大久保秀房の協力を得て実現した[10]

折口信夫(釈迢空)は「女人短歌」の活動に理解を示していた。叢書6巻の発刊、「女人短歌」創刊1周年が重なった時期に、北見・五島・阿部・川上・生方・長沢の6名で折口を尋ね批判を聞こうということになった。その際折口が語った言葉が第6号(1950年9月)に「女人短歌序説[11]」として掲載された。その中には発刊された叢書6巻への批評もある。

創刊以来巻頭に置かれた「女人短歌宣言」は編集委員の決定を持って第36号(1958年6月)から姿を消した。これは編集委員たちの間で、創刊以来の目的が実質的に達成されたとの共通認識があったことを象徴的に表している[12]

「女人短歌」は、1997年(平成9年)12月に終刊した。 森岡は終刊号で「昭和二十四年発足以来、流派にこだわらず女流歌人たちが集まり、女歌について発言もし、新しい風を巻き起こしました。しかし現在は女歌人だけの横のつながりというよりは男性に伍して、女性も互いに活動していくのであって、当初の目的は充分に達成したと思います」と終刊の辞を述べた[13]

表紙

表紙は、洋画家の三岸節子(みぎし せつこ)が担当した。三岸は、創刊号から終刊号まで表紙絵を担当した。 [14]

カットは舞台美術家で画家の朝倉摂(あさくら せつ)が第2号から担当した。

主な歌人

阿部静枝雨宮雅子・石橋静子・生方たつゑ・大井重代・尾崎孝子・川上小夜子・川口千香枝・北見志保子葛原妙子・栗原潔子・五島美代子四賀光子斎藤史・清水千代・杉田鶴子・津田治子・富小路禎子長沢美津中城ふみ子初井しづ枝樋口美世穂積生萩[3]・真鍋美恵子・水町京子森岡貞香・山下貴美子・山田あき・若山喜志子[15]

関連図書

外部リンク

脚注

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