孔知濬

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孔 知濬(こう ちしゅん、生年不詳 - 953年)は、五代十国時代軍人は秀川。本貫徐州滕県[1]

孔延緘の子として生まれた。後梁に仕えて天興軍使となった。後唐同光4年(926年)、知濬は潞州に駐屯した。ときに荘宗宦官を監軍に用いたが、宦官たちは恩顧を恃んで横暴で、兵士たちの不満を抑えることができなくなった。鄴都の変で明宗が擁立されると、藩鎮の多くで監軍が殺害された。潞州の監軍は殺されることを恐れて、潞州を扇動して兵変を計画した。知濬は部屋に武装兵を伏せて、明け方に監軍がやってくると、捕らえてこれを殺した。明宗にこのことを称賛され、沢州刺史に転じた。のちに入朝して左驍衛大将軍に任じられた。長興から清泰年間にかけて、泌州復州成州の刺史を歴任した[1]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、知濬は奉国軍右廂都指揮使となり、舒州刺史を遥領した。天福2年(937年)、興唐府で起こった范延光の反乱の征討に従軍し、宿州団練使に任じられた。まもなく隴州防禦使に転じた。開運2年(945年)、鳳州刺史となり、検校太傅を加えられた。鳳州は西辺防衛の要であったが、兵は少なく孤立していた。知濬の兵士の統撫が便宜にかなっていたため、西辺経営に失態がなかった[1]。開運4年(947年)、契丹太宗開封府に入ると、知濬は義成軍節度使をつとめた[2]

天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、知濬は滑州から入朝した。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、知濬は密州防禦使に任じられた。乾祐2年(949年)、病のため開封府に帰った。後周広順3年(953年)冬、開封府で死去した[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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