元嘉7年(430年)8月、文帝劉義隆の三男として生まれた。元嘉13年(436年)9月、武陵王に封じられた。元嘉16年(439年)、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。元嘉17年(440年)、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。元嘉21年(444年)、撫軍将軍の号を受けた。元嘉22年(445年)、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。
元嘉25年(448年)、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。元嘉27年(450年)、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。元嘉28年(451年)2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南兗州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。
元嘉30年(453年)2月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。大明3年(459年)4月、異母弟の竟陵王劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。
在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、南朝宋の衰退の端緒となった。
大明8年(464年)閏5月、玉燭殿で崩御した。