蕭紀
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南朝梁の武帝の八男。幼い頃から学問に優れ、軽薄なものを嫌っていたといわれる。武陵王に封じられた。
侯景が建康を陥とそうとしたとき、すぐ上の兄の湘東王蕭繹から共闘を呼びかけられたが、蕭紀はそれを断り、軍を動かすことはなかった。そして武帝の死後、蕭紀は成都で皇帝即位を宣言した。
即位後、蕭紀は侯景を討つため天正元年(552年)8月に東征を開始した。4月の段階で侯景は蕭繹によって滅ぼされていたものの、蕭紀の長男の蕭円照は策を巡らせて侯景が滅んだことを蕭紀には知らせないようにし、却って蕭繹が侯景に滅ぼされたと嘘の報告を上げたのを信じた。ところが、11月に江陵で即位した蕭繹(元帝)の軍勢に阻まれ、更に蕭繹の要請を受けて尉遅迥率いる西魏軍までが背後の成都に侵入した。蕭紀は蕭円照を責めたものの、蕭繹が既に皇帝として即位していることを知り、更にあらかじめ吐谷渾と西魏攻撃の盟約を結び、楊乾運を迎撃に向かわせていることから、西魏軍の南下までに時間があると判断して目的を江陵の蕭繹攻撃に変更した。だが、吐谷渾は西魏軍に阻まれ、楊乾運も南朝梁に見切りをつけて西魏軍に降伏してしまったために成都は西魏軍に包囲され、成都へ送った援軍も撃破されたために帰路も断たれてしまい、行き場を失った蕭紀は天正2年(553年)7月11日(『梁書』元帝紀・『資治通鑑』、『梁書』武陵王紀伝では26日)に蕭繹の軍により捕らわれて三男の蕭円満とともに殺された。
戦いの原因を作った蕭円照は弟の蕭円正・蕭円普とともに元帝によって江陵の牢獄で餓死させられたが、成都の留守を預かっていたもう一人の子である蕭円粛は守将の蕭撝とともに西魏軍に降伏(同年8月8日)し、西魏・北周で重用された。