元嘉24年(447年)に雍州刺史の蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げた。明帝より驍騎将軍・西陽県侯・南兗州刺史に任じられ、淮陰にて北魏に対抗した。淮陰では自費で兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に叛乱を疑われることもあったが、明帝が崩御する際に右衛将軍・衛尉に進んだ。
元徽2年(474年)に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が発生したが、これを蕭道成が鎮圧した。この武功により中領軍となり、禁軍を掌握して独裁体制を築いた。元徽5年(477年)、これに危機感を抱いた後廃帝は蕭道成を誅殺しようと計画したが、これに対して先手を打って後廃帝を殺害、順帝を擁立し、自らは侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。
蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握。反乱への加担が未遂に終わった黄回とも一旦は和睦したものの、後に息子の黄僧念と共にこれを殺害した。その後も478年11月には皇族の臨澧侯劉晃(劉裕の弟の劉道憐の曾孫)を反乱の疑いで処刑[1]、昇明3年(479年)3月には楊運長を暗殺[2]、また配下に反乱を勧められた臨川王劉綽(劉道憐の別の曾孫)らを処刑した[3]。同年に相国・斉王となり、順帝より禅譲を受けて南朝斉を建てた。
即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて南朝宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。ただし豫州刺史の劉澄之(劉遵考の子)の一族など、 傍流であり武力にも乏しかった事から殺害を免れた者もいた[4]。内政面では戸籍の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、南朝斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、南朝斉は23年しか存続しなかった。