安元信 (後唐)

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安 元信(あん げんしん、863年 - 936年)は、末から五代十国時代にかけての軍人は子言[1]

騎射を得意とした。幼くして李克用に仕え、黄巣の乱秦宗権の乱の鎮圧に従軍した。光啓元年(885年)、吐谷渾赫連鐸雲州に進攻すると、元信は李克用の命を受けてこれを阻んだが、居庸関で敗北した。元信は敗戦の罪を問われるのを恐れて李克用のもとに帰らず、定州に逃れた。義武軍節度使の王処存に厚遇され、突騎都校として任用された。乾寧2年(895年)、王処存の子の王郜が義武軍節度使の位を嗣いだ。光化3年(900年)、王郜が朱全忠の将の張存敬に追われると、元信は王郜に従って太原府に逃れた。元信は以前のように李克用に待遇され、鉄林軍使に任用された[2]

天復元年(901年)、朱全忠の将の氏叔琮が太原府を攻め、別将の張帰厚馬嶺関から進入すると、元信は楡次県に兵を伏せて、その先鋒を挫いた。天祐4年(907年)、後梁の将の李思安潞州を攻撃し、晋軍は高河に防壁を建てようとしたが、梁軍に迫られた。別将の秦武という者が最も難敵であり、元信はこれと戦って斃した。これにより梁軍は撤退し、晋軍は城塁を立てることができた。元信は李克用から乗馬と細鎧仗を賜り、突陣都将に転じた[3]

天祐5年(908年)、李存勗が晋王位を嗣ぐと、元信は李存勗に従って潞州を救援し、夾寨を破り、沢州・潞州を奪回し、功績により検校司空遼州刺史に任じられた。天祐8年(911年)、柏郷の戦いにおいて、元信は重傷を負い、李存勗に手ずから薬を塗布された。この年のうちに検校司徒武州刺史に転じ、内牙副都指揮使・山北諸州都団練副使をつとめた。天祐12年(915年)、李存勗に従って魏博節度使を平定すると、博州刺史に任じられた。天祐16年(919年)、後梁と徳勝口で対陣し、元信は右廂排陣使をつとめた[3]後唐同光2年(924年)、雲州節度留後となった[4]。同光3年(925年)、横海軍節度使に転じた[5]契丹が北辺を侵犯すると、元信は霍彦威とともに李嗣源に従って鎮州に駐屯した。元信は功をたのんで、霍彦威を侮ったが、霍彦威は相手にしなかった。李嗣源が元信の口ぶりをとがめると、元信は再び霍彦威をからかおうとしなくなった[3]

天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、元信は内牙都校となり、同中書門下平章事を加えられた。徐州節度使に転じた。天成2年(927年)、唐軍が荊南高季興を討つにあたって、山南東道節度使の劉訓が敵を恐れて軍の到着を遅らせたため、元信が劉訓に代わって節度使となった[3]長興元年(930年)、帰徳軍節度使に転じた[6]。長興4年(933年)、侍中を兼ねた[7]。明宗が病床に臥すと、元信は求められて入朝した。清泰元年(934年)、末帝李従珂が即位すると、元信は昭義軍節度使に任じられ、検校太尉を加えられた。清泰3年(936年)2月、潞州で病没した。享年は74。太師の位を追贈された。後晋高祖が即位すると、元信はを忠懿とされた[8]

家族

  • 父:安順琳(降野軍使)[1]
  • 長男:安友権(諸衛大将軍を歴任した)
  • 次男:安友親(滁州刺史)[8]

脚注

伝記資料

参考文献

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