安審琦
五代十国時代の軍人 (896-959)
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経歴
勇猛果断な性格で、騎射を得意とし、幼くして良家の子として晋王李存勗に仕えて義直軍使となり、本軍指揮使に転じた。後唐の天成元年(926年)、李従珂が河中節度使として出向すると、審琦はその下で牙兵都校となった。ほどなく入朝して帰化指揮使となった。長興元年(930年)、剣南東川節度使の董璋が反乱を起こし、討伐の軍が起こされると、審琦は行営馬軍都指揮使をつとめた。凱旋すると、龍武右廂都校に転じ、富州刺史を遥領した。清泰元年(934年)、捧聖指揮使に任じられた[1]。清泰2年(935年)、楚州順化軍節度使を遥領した[2]。この年、邢州節度使に転じ、北面行営排軍陣使を兼ねた。清泰3年(936年)、張敬達に従って太原府の石敬瑭を包囲しようとした。楊光遠が晋安寨ごと石敬瑭に降伏すると、審琦もこれに加わった[1]。
天福元年(936年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、審琦は検校太傅・同平章事を加えられ、天平軍節度使をつとめ、侍衛馬歩軍都指揮使を兼ねた[1]。まもなく母が死去したが、審琦は服喪の途中で官に復帰した[3]。天福3年(938年)、検校太尉を加えられた。ほどなく晋昌軍節度使・京兆尹に転じた。天福7年(942年)、河中節度使となった。少帝石重貴が即位すると、審琦は検校太師を加えられた。開運2年(945年)、契丹が侵入すると、審琦は北面行営馬軍左右廂都指揮使となり、諸将とともに洺州で兵を合流させた。まもなく契丹の騎兵が大挙してやってきて、安陽河上で戦闘すると、皇甫遇や慕容彦超が包囲されて危地に陥った。諸将があえて救おうとする者のない中、審琦は鉄騎を率いて北に渡河し、皇甫遇と慕容彦超を救出して帰った。少帝にこのことを嘉され、侍中を兼ね、許州節度使に転じた[4]。開運3年(946年)1月、兗州節度使となった[5]。11月、邠州留後に任じられた[6]。
天福12年(947年)、後漢が華北を制圧すると、審琦は山南東道節度使に任じられ、中書令を兼ねた。荊南が離反し、ひそかに水軍数千を派遣して襄州や郢州に来攻した。乾祐元年(948年)、審琦はこれを防いで撃退し[4]、功績により守太保を加えられ、斉国公に進封された[7]。乾祐2年(949年)、また守太傅を加えられた[8]。
広順元年(951年)、後周が建国されると、審琦は南陽王に封じられた。顕徳元年(954年)、陳王に進封された。世宗柴栄が即位すると、審琦は守太尉を加えられた。顕徳3年(956年)、朝見を願い出て許され、守太師を加えられた。審琦は襄州に駐屯すること1期に過ぎなかったが、その統治は厳しくとも残酷でなく、威力を示したが横暴でなかったことから、山南の民衆たちはかれの善政に感服した。顕徳5年(958年)、審琦は平盧軍節度使に転じた。世宗に国の元老として礼遇厚く、世宗自ら審琦の邸に行幸した。顕徳6年(959年)1月7日夜、審琦はその下僕の安友進と安万合に殺害された。享年は63[4]。審琦の子の安守忠が安友進らを殺害して報復した。審琦は尚書令の位を追贈され、斉王に追封された[9]。