安審暉

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安 審暉(あん しんき、890年 - 952年)は、五代十国時代軍人は明遠[1]沙陀部の出身[2]

経歴

長直軍使を初任とし、外牙左廂軍使に転じた。晋王李存勗に従って幽州薊州を討ち、山東で戦い、河南を平定するのにあたって、いずれも功績を挙げた。後唐同光2年(924年)、蔚州刺史に任じられた。天成元年(926年)、汝州防禦副使に転じた。のちに鳳翔節度副使・武寧軍節度副使・河東行軍司馬を歴任した。清泰3年(936年)、石敬瑭太原府で起兵すると、審暉は覇府の上僚として振武軍節度留後となった[1]

後晋天福2年(937年)2月[3]、審暉は河陽節度使に転じた。その月のうちに、鄜州節度使に任じられた。母が死去したため、審暉は喪中に官に復帰して事務をみた。天福5年(940年)、李金全安州に拠って反乱を起こし、馬全節が都部署となって討伐を命じられると、審暉はその副将となった。安州が平定されると、審暉は威勝軍節度使となり、検校太傅の位に進んだ。天福6年(941年)冬、襄州安従進が叛き、漢南の軍がこぞって北の鄧州を攻撃してきた。鄧州は外城の城壁がなく、内牙の城壁を守るだけだった。反乱軍が城下に迫ると、審暉はひめがきに登って、反乱軍の主将を叱責した。安従進は攻め落とせずに撤退した。襄州が平定されると、審暉は検校太尉を加えられた。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位すると、審暉は検校太師を加えられた。威勝軍節度使を退任し、右羽林軍統軍に任じられた[4]。天福8年(943年)、昭義軍節度使に出向した[5]開運元年(944年)、安国軍節度使に転じた[6]。ほどなく眼病が酷くなると、開封府に帰って、病身を養った[7]

広順元年(951年)、後周の太祖郭威が即位すると、審暉は内殿に召し出されて、諮問に答えた。太子太師として致仕し、魯国公に封じられた。広順2年(952年)春、死去した。享年は63。侍中の位を追贈された。は静といった[7]

家族

  • 祖父:安山盛(朔州牢城都校、贈太傅)
  • 父:安金全(安北都護・振武軍節度使)[2]
  • 弟:安審琦[8]
  • 子:安守鏻(北宋の賛善大夫)[7]

脚注

伝記資料

参考文献

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