安藤良整
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略歴
永禄12年(1569年)以前から、小田原城にあって、段銭などの公事収納や、扶持・公用(職人衆使役の手当)などの支出を担当しており、経済関係の吏僚だったとみられている[1]。
『所領役帳』の玉縄衆の一覧の末尾に永禄2年(1559年)2月12日付で筆者として「安藤豊前守」の名がみえる[2]。
『新編相模国風土記稿』によると、永正3年(1506年)に小田原の万町に来て庵を結んでいた僧・摂果に帰依し、堂宇建立の依願を受けて、北条氏康に言上して一町田町の寺地を下賜され、永禄6年(1563年)4月上旬に誓願寺を建立した[3]。
- 同年に発給された、同寺建立を伝える伝馬手形の付箋に「御奉行安藤豊前守御役所より」とあり、この頃には奉行衆の一員で、寺院建立を要請できる身分だった(=軽役・軽禄ではなかった)とみられている。
永禄12年(1569年)から天正16年(1588年)にかけて奉者を務め、虎印判状が20通近く残っている[1][4]。
元亀元年(1570年)12月に今川氏真が家臣に与えた知行地の売却を承認した判物において、配下の吏僚だったとみられる山角弥十郎とともに証人とされている[5]。
天正元年(1573年)頃に入道し、「良整」と名乗った[1]。
天正6年(1578年)7月2日に、天正4年頃、北条氏政から印判状を受け取って唐土へ渡った三官という唐人が黒船で戻り、三崎港に着岸したとき、氏政の検使として三崎を訪れ、売買の交渉にあたった[6]。
文書上、最後にその名が見えるのは天正17年(1589年)9月に多摩川で洪水が発生し、これから起こった領地争いの検使として赴いた記録である。
没年は不詳。
安藤升
暦の再計算
『北条五代記』によると、北条氏の領国内では、伊豆国の三島大社で作成された三島暦と、武蔵国の氷川神社で作成された大宮暦という、置閏法の解釈の異なる二種類の暦(民間暦・仮名暦)が使用されていたが、天正10年(1582年)12月に、大の月と小の月の違いが出た。北条氏政は2所の陰陽師を召し寄せて尋問したが、争論となり、元旦をいつ祝えばよいのかが定まらなかった。そこで算術に優れた安藤に再計算を命じ、安藤は私宅に籠って再計算をした結果、三島暦が正しいと結論付けた[7]。
北条氏領内では三島暦が採用されることとなり、大宮暦の頒暦が禁止されたため、大宮暦は衰微したと言われている(「改暦 - 天正10年の例」参照)。