安藤氏
日本の氏族
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津軽の安藤氏
三河国の安藤氏
美濃国の安藤氏
安積国造裔
清和源氏村上氏流安藤氏
武蔵国の安藤氏
相模国の安藤氏
常陸国の安藤氏
常陸国などにも安藤氏がいる。『地蔵霊験記』に建長年間(1249年 - 1255年)の人物として安藤五郎の名を載せ、鎌倉時代から南北朝時代までを記した『保暦間記』にも安藤五郎の名を載せる。安藤五郎は安東氏の祖とする系図もあるため、常陸国の安藤氏は安倍氏流安藤氏と同祖か。また明徳2年(1391年)熊野参詣願文に安藤四郎国守の名が見える[2]。家紋は丸に上がり藤、丸に下がり藤、丸に木瓜[3]。
秋田藩士 安藤氏
安藤右京は明応年間(1492年 ~ 1501年)に常陸守護 佐竹義舜に供奉するという。安藤右京亮は金砂山城の戦いで義舜に御供し、「右京大夫義舜公当山御籠城之事」にて忠義の侍と称される[4]。 その裔、常陸国より佐竹氏の秋田転封に随行し出羽国に移住する[5]。 須賀川二階堂氏の一族 [6]、藤原姓[7]。文書によっては安東とも表記[8]。下がり藤紋。
永禄7年(1564年)、佐竹義昭は安藤太郎右衛門(飛騨守)に「当地在城のための知行」として田村・前木・太村(現在の塙町等、かつての南郷、現在の福島県東白川郡)の七十貫文の地を与えた[9]。
系譜:安藤右京 - 将右 - 飛弾守 - 久右 - 右清 - 右重 - 右将 - 太郎左衛門右貞
また、安藤氏世系として以下の系も秋田転封の際に仕えるという[10]。
系譜:某一某※―道久―道長―某―右尚―右虎 (※が佐竹義宣転封の際に仕える。右京某第二子の系統)
安藤重長は佐竹義宣の秋田転封に随行し、秋田郡大館に住まうという[5]。
系譜:安藤重長 - 重友 - 重治
水戸藩の尊王志士・義民たる安藤氏
- 安藤忠之進 - 水戸藩士。先手同心組。諱は忠重。天狗党の乱に与して下総国関宿藩に拘禁される。慶応元年(1865年)4月25日、武蔵国岩槻藩の獄にて獄死。享年23(24とも)。靖国神社合祀[11]。
- 安藤杢之進 - 水戸藩士。馬廻組後に広間詰。父は杢之進安定。初名は新之丞で諱は定愛という。天狗党に属し、元治元年(1864年)、捕らわれ獄に下る。慶応元年(1865年)10月25日、水戸で斬首。享年35。靖国神社合祀[12]。
- 安藤東之進 - 那珂郡小場村の郷士。歩兵列 安藤幾平則賢の長男。那珂湊、鹿島と転戦。元治元年(1864年)9月5日 (旧暦)、棚倉藩兵に攻められて舟中にて討ち死にする。享年33。靖国神社合祀[13]。
- 安藤次郎右衛門 - 那珂郡小場村の里正格組頭。諱は定之。天狗党の乱に天狗勢として加わるが、元治元年(1864年)10月22日、榊原新左衛門勢の降伏に悲噴し自刃する。享年52。靖国神社合祀[14]。
- 安藤又四郎 - 那珂郡小場村の百姓。慶応2年(1866年)7月10日、江戸佃島にて獄死。享年41(45ともいう)、靖国神社合祀[15]。
- 安藤繁之介 - 浪人。名は繁蔵とも。諱は貞吉、慶応元年2月15日、越前国敦賀で斬首[16]。
- 安藤正之介 - 天狗党の林正徳組に属する。穀留中間。慶応元年(1865年)2月15日、越前国敦賀で斬首[16]。
- 安藤彦之進 - 安藤信明の長男。与力。元治元年(1864年)に武田耕雲斎に随って転戦し、捕えられる。慶応元年(1865年)2月15日、斬首。享年27。敦賀松原に墓がある。贈従五位。靖国神社合祀[16]。
- 安藤兵吉 - 常陸国の百姓。天狗党に属し、太平山の挙兵に加わる。捕えられて元治元年(1864年)11月3日、斬首[16]。
- 安藤政五郎 - 那珂郡門井村の百姓。組頭。天狗党に属し、那珂湊で戦い砲創を負う。慶応元年(1865年)9月17日、死去。享年38。靖国神社合祀[15]。
