宋慶礼

From Wikipedia, the free encyclopedia

宋 慶礼(そう けいれい、645年 - 719年)は、唐代官僚本貫洺州永年県[1][2]

明経に及第し、衛県県尉に任じられた。武周のとき、侍御史桓彦範が勅命を受けて河北で居庸関・岳嶺・五回嶺などの路に塞を築き、突厥に備えるにあたって、慶礼を召し出して軍事を相談した。慶礼は計略に優れていたため、桓彦範はかれを礼遇した。ほどなく慶礼は大理寺評事となり、そのまま嶺南採訪使をつとめた。ときに崖州振州など5州の首領が互いに侵略しあい、治安を悪化させ、人心を荒廃させていた。慶礼は自ら州境に赴き、風俗を質問して、利害を示した。これにより民心を安堵させ、駐屯兵5000人を削減した。開元年間、慶礼は貝州刺史に累進し、そのまま河北道支度営田使をつとめた[1][3]

かつて営州都督府が柳城県に設置され、契丹を服属させていた。武周のとき、営州都督趙文翽の統治が悪く、奚と契丹が反乱を起こして柳城県を攻め落としたため、営州は幽州の東200里の漁陽県に移転された。開元5年(717年)、奚と契丹が唐に帰順したことから、玄宗は営州を柳城県の地にもどそうとした。侍中宋璟がこれに強く反対したが、ひとり慶礼はその利点を説いた。慶礼は玄宗の命により姜師度や邵宏らとともに修築使となり、柳城県に営州城を築いた。工事を興して30日で竣工させた。まもなく慶礼は御史中丞に任じられ、検校営州都督を兼ねた。屯田80か所あまりを開き、幽州および漁陽県や青州の戸口を選抜して移住させ、ソグド商人を招聘して店舗を立てさせた。数年のあいだに営州の穀物倉は充実し、住人は豊かになった。開元7年(719年)、死去した。工部尚書の位を追贈された。は敬といった[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI